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コミケットを始めた頃


「鳥頭なメモ」というページの2003年9月欄に こういう記事がある。 http://www.puni.net/~aniki/diary/?200309より転載
 その昔、「 COM 」という漫画専門誌が刊行されていた(1966年創刊)。手塚治虫や石森章太郎が漫画を 連載していたこの雑誌では、 真崎守 が「峠あかね」名義で漫画評論を行っており、また全国規 模の同人誌を組織していた。おそらくこれが日本における漫画同人のはしりと言ってよいだろう。 1973年にこの雑誌が廃刊となり、それを機に東京の「コミック・プランニング・サービス」(CPS) と、大阪の「漫画ジャーナル」関係者が新たな漫画批評の場として立ち上げたのが「迷宮」という 漫画批評同人サークルである(1975年)。当時は「まんがフェスティバル」(「まんがの虫」主催) と「まんが大会」(「まんがグループ連合」主催)ぐらいしか漫画ヲタが大挙して集合する場所はなく、 同人誌の売買は後者のみに限られていた。とある参加者がこの大会の運営方針に批判を行ったところ、 まんがグループ連合が「そういうことであるなら、もう今回からは参加させない。」という返答を行ったものだから、 「まんが大会を告発する会」なるものが結成され、反対運動が始まってしまった(「迷宮」はかなり深くこの運動に 関わっているという)。とは言え、その当時、同人誌は「まんが大会」でしか買えなかったわけで、批判するならば 誰かが代替となる場所を作る必要があった。そういう経緯から、迷宮は結成年の夏に同人誌即売会を主催する準備に 入ることになる。当時、CPSは「全国同人誌リスト」というものを作成しており、これを元にして第一回コミック マーケット(1975年12月 日本消防会館)が開催された(参加サークル数は32団体、参加者約700名)。「肉筆回覧誌」 というものはもう少し時代を遡るが、現在のような形の「同人誌」がそれなりにヲタク世界で一般になったのは、 上記のように1970年に入ってからであり、その担い手は主として大学の「学漫」であった。もちろん、そのほかにも 個人が主催する「漫画研究会」も多くあったのだが、多くの人はどこかに所属する形で自分の作品を発表していた。 年齢的には10代後半から20代前半ぐらいであり、「24年組」漫画家(萩尾・竹宮・大島弓子など)の影響を強く受けている。

さて、ここに出てくるグループ名と誌名でメジャー誌以外の殆どに関わったという経歴なので、前後関係や裏話などを捕り止めもなく書き綴ってみたい…
一応、人物名はペンネームと基本とし商業出版物のある人以外はイニシャルにした。

「まんが大会」
形式は入場者有料−申込みで合宿ありだった。内容はスライド講演・作家挨拶・パネルディスカッション・ファン賞選定・オークション・ファンジン即売−後日にレポート配布と 70年代初期の筒井康隆氏主催−SINCONまでのSF大会のフォーマットと同じだった。 そのことからも想像がつくように中心メンバーはSFファンダムに属していた者で構成されていた。1973年に第1回を開催−第10回まで続いた。
詳しくは「漫画大会」−コミケ前史に纏めています。
「SFファンダム」
70年代初期のSFファンダムからまんが同人に流れ込んだ人は創作系を除くと非常に多かった。理由の1つに同人募集をするのに SFマガジン−てれぽーと欄「読者投稿欄」が利用されたケースが多く、また首都圏のファンダムでは20代後半〜30代の社会人−いわゆるBNF−に仕切られていて 学生層とヘゲモニー争いが多少あった。革バグ《グループ名:革命的バグ集団と名乗っていた》のH氏が「TOCON粉砕」を叫んだことに象徴されている。
「まんがグループ連合」
石森章太郎FCと永井豪FCが中心−あと一条ゆかりFCや創作系では「鏡」などがいた。創作系より作家FCが優勢で 自然と「まんが大会」も雑誌社のヒモツキでないファンと作家との交流会という志向になっていった。
「まんがの虫」
名古屋のO氏がCOMとSFマガジンで呼びかけて作った評論系の同人。名称からか手塚治虫FCの色彩が濃く、東京支部は 「まんが大会」の主催グループではないが協力グループの一員だった。コレクターズ・クラブの異名もあり、「まんが大会」のオークションを仕切った。
「CPS」
霜月たかなか氏・式城京太郎氏・K氏らで結成された漫画評論グループ。同人誌名は「いちゃもん」。米沢嘉博氏や忠津陽子FCを立ち上げるT氏などが参加メンバーだった。 ダイナビジョン「11月のギムナジウム」の製作をしたMJMの主要メンバーを構成しており、その上映会で全国の学漫や同人に連絡を取ろうとしていた。 「漫画ジャーナル」ともその縁で知り合った。
「漫画ジャーナル」
グループ名は「構雄会」後に迷宮で名を馳せる亜庭じゅん氏や現評論家の村上知彦氏の他に「きみどりの星★」というガリ誌や「マ*ガレ*ト」なるコピー誌で 少女マンガをネタに毒のある冗談を撒いていたI氏が本名で評論を寄稿していた。主筆の高宮成河氏は幻の「漫金超」6号の編集長(^^;
「ぐらこん大阪」が「COM」に替わるものと目論んで出した活版印刷誌「あっぷるこあ」で評論を受け持っていた。 感光青コビー誌で出回った部数は非常に少ない。印刷は僕の卒論研究室の事務準備室でもやった。
「ぐらこん」
先に掲げた資料で「真崎守が…中略…また全国規模の同人誌を組織していた。」とある組織の名。当然だが創作系になる。 COM誌上での投稿欄も同一名だった。現在「ぐらこん」出身と言われるプロ漫画家の殆どはこの投稿欄の「ぐらこん」出身。同人「ぐらこん」の出身者は よく判らない(^^; 雑誌「COM」の編集方針転換−「ぐらこん欄廃止」と共に各地域「ぐらこん」も分断・崩壊していった。

という基礎知識(^^;を基に次ページを… 

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