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マンガファーストファンダム概念の提言

「ファーストファンダム」という言葉があります。
例によってアメリカSFファンダムの用語で(1939年以前のファン活動、又はその活動をしていた人)という意味だそうです。この1939年と言う年はワールドコンの第1回が開催された年だそうで、その開催以前の活動を指すそうです。サム・モスコウィッツの「永劫の嵐」という本に詳しく載っているそうですが未訳ですし原本も未見です。

それで、本邦マンガについても このファーストファンダムという用語を使用することにより「マンガを描かない人の参加」「コンベンション・イベント型の集まりの開始と非持続性・非日常性」「印刷技術の大衆化」が相俟ってコミケの開始となった流れが説明できる感がします。またこの時期に特有の喧騒などや摸索感をも説明が可能でしょう。

このファーストファンダムの年表を作ってみました。開始はCOMの休刊、終焉はコミケ開始の75年12月としています。ただファーストファンダムの時期については最も長く取るとグラコンの開始から漫画大会の終焉・MGMの開始まで、とも採り得えると思われます。

年譜にはマンガ関連だけでなくSFファンダムの流れも記載しました。この時期マンガファンダムはSFファンダムの強い影響下にあり無視出来ない流れだと思われます。

72年 1月商業誌『COMコミックス』刊行 『COM』の廃刊
5月イベント・SF SFフェスティバル72 TERRACON 京都三鈷寺
7月29日〜30日イベント 第1回日本漫画大会-四谷公会堂 参加人員:369名 コスプレの萌芽
8月19日〜20日イベント・SF日本SF大会 MEICON2 名古屋・東別院青少年会館 参加人員: 350人
12月ミニコミ誌《あっぷるこあ》創刊
73年 3月ミニコミ誌 《あっぷるこあ》2号 「薄明の現在」開始
4.5月商業誌『COMコミックス』終刊
5月商業誌『月刊ファニー』復刊
5月イベント・SFSFフェスティバル73 TERRACON2 滋賀三井寺
5月同人誌《漫画ジャーナル》創刊
7月同人誌《モトのとも》別冊刊行
8月商業誌『COM』復刊 1号のみ
8月商業誌『月刊ファニー』休刊
ミニコミ誌《あっぷるこあ》3号
8月2日〜3日イベント・SF日本SF大会 EZOCON 北海道・支笏湖畔 参加人員:80名
8月4日〜5日イベント第2回日本漫画大会-四谷公会堂 参加人員:413名
9月30日イベント・SF第1回日本SFショー 東京・富士学院ホール
11月同人誌《いちゃもん》創刊号
12月イベント・SFSFクリスマス 京都三鈷寺
74年 1月ミニコミ誌《あっぷるこあ》4号 「薄明の現在」中断
1月商業誌・SF『奇想天外/盛光社』創刊
3月30日〜31日イベントまんがファンフェスティバル'74 目黒福祉会館
6月商業誌『月刊花とゆめ』創刊
7月23日同人アニメ【11月のギムナジウム】ダイナビジョン 完成
7月27日〜28日イベント第3回日本漫画大会-四谷公会堂 参加人員:455名
8月3日〜4日イベント・SF日本SF大会 MIYACON 京都教育文化センター 参加人員:320名
8月イベント・SFSFフェスティバル74 EDOCON(東京)
イベント少女漫画フェスティバル 横浜(横浜市南公会堂/青少年センター?)
10月商業誌・SF『奇想天外/盛光社』休刊
10月商業アニメ【宇宙戦艦ヤマト】放映開始
11月3日イベント・SF第2回日本SFショー 東京(世田谷 砧区民会館)
12月同人アニメ【11月のギムナジウム】 大阪上映会 少女劇団結成
75年 4月ミニコミ誌《あっぷるこあ》5号終刊
4月5日〜6日イベントまんがフェスティバル'75 大阪市立労働会館会議室
4月商業アニメ【宇宙戦艦ヤマト】放映終了
7月抗議運動「まんが大会を告発する会」結成
7月同人誌《漫画新批評大系》0号
7月26日〜27日イベント第4回日本漫画大会-四谷公会堂 参加人員:567名
8月イベント・SFSFフェスティバル75(名古屋)
8月3日イベント少女漫画フェスティバル 横浜市南公会堂
8月10日イベント夏の少女まんがカーニバル 吹田市民会館
8月23日〜24日イベント・SF日本SF大会 SHINCON 神戸文化ホール
12月同人誌《漫画新批評大系》1号
12月21日イベント第1回コミックマーケット(C1) 日本消防会館 32サークル:700人

概略史

「COM」という雑誌の特異な部分は先進作品の掲載だけでなく、新人発掘の為の投稿欄や同人誌の紹介を積極的に行なったコーナー「ぐらこん」でも知られている。「ぐらこん」は雑誌「COM」の投稿コーナーと、全国各地に設けられた「地方ぐらこん」とそれを統括する同人組織「全国ぐらこん」の2つの意味を持っていた。
投稿コーナー「ぐらこん」は「COM」の編集方針が変更して青年誌「COMコミックス」となった時点で廃止されたが、それと同時に同人組織の「全国−地方ぐらこん」も空中分解してしまった。
単なる読者組織であった「ぐらこん」に過大な夢を託した参加者も甘いと言えば甘かったのだが、そう思わせるような檄もCOMには掲載されていたし、なによりも時代が学生運動の活発であった70年代初頭であり全国的な展開を商業誌に求めない青年層が多かったことも事実であった。

COMが廃刊された1972年当時、マンガ同人界は大きく大別して創作系とファン系に別れていた。創作系はプロを目指すにせよ、目指さないにしても参加同人の創作したマンガを主として掲載しており、ファン系は特定作家のファングループにしても一般的なものにしても評論的なものを志向していた。
概して言えば創作系は「COM」の各地方ぐらこんを源流としていたか、ダイレクトに影響を受けていた者が多かった。それに対してファン系はSFファンダムからまんが同人に流れ込んだ人が多かったように感じられた。

そして、その両系のグループからCOMの「ぐらこん」を継ぐものとして様々な活動が生じたのが、このマンガファーストファンダムの時代であったとも言える。まず「関西ぐらこん」の元々の母体である「作画グループ」が単行本「グループ」を再開しはじめた。また作画グループに参加しなかった「関西ぐらこん」の元メンバーは独自にミニコミ誌「あっぷるこあ」を立ち上げた。
「あっぷるこあ」は当時、興りつつあったミニコミブームにも乗り全国の書店のミニコミコーナーなどにも置かれ、「ぐるーぷ」が貸本ルートで展開していたのに対して商業出版とは違う別ルートでの展開を摸索していたようにも思われていた。執筆陣に「樹村みのり」「芥真木」「さいがようへい」などCOMの投稿者が多く起用されていた。

この「あっぷるこあ」の評論を受け持っていたグループがあった。名称を「構雄会」と名乗り「あっぷるこあ」誌上では「薄明の現在」との表題で70年代初期のマンガ状況を薄明であり光明は近いと位置づけ論じていた。筆者は後のペンネームで記載すると「亜庭じゅん」と「高宮成河」。どちらも後に迷宮の中核となる。そのブレーン「村上知彦」「井上幸一郎」「本サイト筆者」らを執筆陣に加えたのが「漫画ジャーナル」という青焼コピー誌で「あっぷるこあ」の定期購読者にも配布された。

その「漫画ジャーナル」に呼応するように東京でも評論グループが立ち上った。グループ名を「CPS」を名乗り−これは後にコミケの刊行物発行者名として引き継がれた−評論誌名を「いちゃもん」といった。
彼らの出会いの場は漫画大会の合宿の時だという。そう漫画大会というイベントが立ち上がったのも72年のことであった。SF大会に強い影響を受けた−というかSF大会を模した−イベントで、これを契機にかSFファンがマンガ同人界に多く流れ込んできた。
コミケットを始めた頃につづく−

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