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近隣恒星相互の距離と明るさ
2012年12月07日10:04
大学卒業の年、卒研でコンピューターを触れたのでお遊びで入力
プリントアウトの1部を柴野さんへ送ったところ野田宏一郎氏が喜びそうと廻されたとのこと…
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C MUTUAL DISTANCE OF NEARIST STARS
DIMENSION STAR(15),H(15),DIG(15),YE(15),ZL(15)
DIMENSION DIS(15,15),AKA(15,15),ITH(15,15),ITM(15,15)
RADF(A,P,Q)=Q*P*(INTF(A)/180.+(A-INTF(A))/108.)
P=3.1416
READ 501,(STAR(I),H(I),DIG(I),YE(I),ZL(I),I=1,15)
501 FORMAT(A8,F7.3,F7.2,F6.3,F6.2)
DO 100 I=1,15
PSC=1./YE(I)
DIS(1,I)=PSC*3.26
DIS(I,1)=DIS(1,I)
FI=RADF(H(I),P,15.)
THI=RADF(DIG(I),P,1.)
IF(I-1)100,100,60
60 K=I+1
DO 300 J=K,15
FJ=RADF(H(J),9,15.)
THJ=RADF(DIG(J),P,1.)
PAS=1./YE(J)
XSUB=(SINF(THI)*PSC-SINF(THJ)*PAS)**2
YSUB=(PSC*COSF(THI))**2+PAS*COSF(THJ))**2
ZSUB=2.PSC*COSF(THI)*PAS*COSF(THJ)*COSF(FI-FJ)
DIS(I,J)=SQRF(XSUB+YSUB-ZSUB)*3.26
FAI=(FJ-FI)*12./P+24.
TA=SQRTF(XSUB/(YSUB-ZSUB))
THT=SIGNF(ATANF(TA),THJ-THI)*180./P
DIC(I,J)=INTF(THT)+MODF(THT,1.)*0.6
ITH(I,J)=XMODF(XFIXF(FAI),24)
IHM(I,J)=MODF(FAI,1.)*60.+100.5
DIC(J,I)=-DIC(I,J)
IHT(J,I)=XMODF(ITH(I,J)+12,24)
ITM(J,I)=ITM(I,J)
300 CONTINE
100 CONTINE
DO 200 I=1,15
DO 400 J=1,15
IF(I-J)30,400,30
30 AKA(I,J)=ZL(J)-5.+5.*LOGF(DIS(I,J)/3.26)/LOGF(10.)
400 CONTINUE
AKA(I,I)=1000.0003
DIS(I,I)=1000.003
DIC(I,1)=-DIG(I)
DIC(1,I)=DIG(I)
DIC(I,I)=1000.003
ITH(1,I)=H(I)
ITM(1,I)=MODF(H(I),1.)*100.+100.5
ITM(I,1)=ITM(1,I)
ITH(I,1)=XMODF(ITH(1,I)+36,24)
ITH(I,I)=900
ITM(I,I)=900
200 CONTINUE
PLINT 601 ,(I,I=1,15)
601 FORMAT(1H1,50X,35H MUTUAL DISTANCE OF NEARIST STARS //1H ,11X,15(I5,3X))
DO 102 I=1,15
PLINT 602,I,STAR(I),(DIS(I,J),J=1,1)
602 FORMAT(1H0,I2,1X,A8,,15(F5.1,3HLY ))
PLINT 603,(AKA(I,J),J=1,15)
603 FORMAT(1H ,11X,15(F6.2,2X))
102 CONTINUE
PLINT 601,(I,I=1,15)
PLINT 604,(I,STAR(I),DIC(I,J),J=1,15),(ITH(I,J),ITM(I,J),J=1,15),I=1,15)
604 FORMAT(1H0,I2,1X,A8,15(F6.2,2X)/1H 11X15(I3,1H:I2,2X))
STOP
END(1,0,0,1,0)
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僕が中学の頃に買った百科事典の記載から採取したデータが元でかなり怪しく今wikiなどに記載されているデータで再計算しなくては(笑)
計算結果でいま話題のタウケチからのデータを見ると
SOL | 10.9LY | 2.5等星 |
A-CEN. | 12.5LY | 2.6等星 |
BARNARD | 14.7LY | 11.4等星 |
LUY726-8 | 3.0LY | 10.4等星 |
WOLF-359 | 17.8LY | 15.2等星 |
LA-21185 | 18.1LY | 9.1等星 |
SIRIUS | 11.6LY | -0.8等星 |
ROSS-154 | 15.0LY | 11.5等星 |
LUY789-6 | 8.0LY | 11.9等星 |
ROSS-248 | 11.7LY | 12.5等星 |
E-ERI. | 5.1LY | 2.2等星 |
ROSS-128 | 21.1LY | 12.6等星 |
61-CYG. | 14.8LY | 6.2等星 |
PROCYON | 15.7LY | 1.2等星 |
となってます。半角大文字英数字しか使えなかったので星名は略してます...
というか言語も死語のフォートランしかもJIS非準拠の大学独自方言(笑)
しかし、学生にコンピューターを(自由に)触らせると【今も昔も】遊びにしか使わないな(笑)
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なぜ70年代は少女まんがだったのか
2012年12月07日09:56
》あの時代、「迷宮」は、何故少女まんが志向だったのでしょう?
なんてメールを先日頂いた。また、凄い難問を…(笑)
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『あの時代(70年代後半)は少女まんががまんがの可能性を求めた場合に一番ラジカルであったサブジャンルであったから』としか答えようの無い質問なのです。
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なんて返答を反射的に送ったがチトばかし単純化しすぎたようだ(^^;
そう、別に迷宮には青年まんが志向の高宮成河氏や少年まんが志向の式城京太郎氏もいたし、アニメ志向の高い人も何人もいた。また、それらのジャンルを語りかければ語り返せるだけの読書量を全員が持っていた。でも今の時点で振り返れば「迷宮」≒コミケ準備会/コミケ準備委は確かに少女まんが志向に見える。
『漫画新批評大系』の主筆であった亜庭じゅん氏が基本的に少女まんが志向であったことと、初期コミケの参加者の7〜8割が女性だった故に少女まんが志向に見えるのかも知れないが、マニアの中でもアクティブな人達は72年ぐらいには、既に少女まんがを読んでいた。
70年に亜庭と出合った時は『少女まんがを語れる男』というのはホントに珍しく【名古屋と京都だから、もう2度と遭うことはあるまい】と誤解したこともあり長時間に渡り話し込んだことを思い出す。だか僅か2年後の第1回漫画大会の合宿では男子部屋で僕がいた部屋【公式レポートに僕の本名でレポ記載あり】と『コミックマーケッサト創世記』によると霜月たかなか氏がいた部屋の少なくとも2室で少女まんが談義が行なわれていた。
つまりアクティブなまんがファンは少年まんがや青年まんがへの志向はある程度は保ちつつ少女まんがに目を向けはじめていた。それは24年組の活動と期を同じくしているので、単純に見れば原因を71年の「雪の子」から「11月のギムナジウム」に至る萩尾望都ショックによって増えたのかのように見えるが、そうでもなく「ときめき」を熱く語り「きみどり」や「よし子先生」をパロディと理解して語れる人達であったことは翌年の第2回漫画大会合宿での「男だけで語る少女まんがの会」の盛況ぶりと話題の内容が萩尾望都があまり触れられていなかったことからも判る。また『いちゃもん』から『迷宮』の経歴をもつT氏は忠津陽子FCを立ち上げていたし、漫画大会の実行委員長をやったS氏は一条ゆかりFCを立ち上げていた。
という訳で最初に言った『あの時代(70年代後半)は少女まんががまんがの可能性を求めた場合に一番ラジカルであったサブジャンルであったから』が正鵠なのだろう。そのラジカルさに惹かれてアクティブなまんがファン:当時の表現のマニア層が少女まんがを読み始めたのだろう。
それでナゼ、『少女まんががラジカルであった』のかは、当時も今も検証中の作業なので断定は出来ていない。
でも
1.少女まんがの主要テーマの1つに恋愛【人と人の闘争でなく触れ合い】を選んでしまっていた。
2.派生サブジャンル【現在のBL、レディスなど】がまだ生まれておらず混沌としていた。
この2つが怪しいのだがマダ断定はできていない。
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【告知】2013年カレンダー
2012年12月05日12:30
一部マイミクさんでご愛用の拙サイトカレンダー
2013年版をアップしましたのでご笑納願いますm(_ _)m
http://gomi.my.coocan.jp/java/cale/2013cal.html
「bluedaisy」さんの素材を新たに採用。…と素材が替わっただけともA(^^;
まぁ、カレンダーなんてそんなもの と謂われればそんなもの(笑)
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PC初期化奮闘記−脇に別PCが無いと無理!
2012年11月08日10:49
娘のノートが具合が悪くなり初期化されてしまった。
それで、復旧を依頼されたのだが…
写真などのデータは戻らないことは了解済で、インストールCDの類が見当たらないのでエクセル・ワードは殆ど使わないので不用とは聞いて作業に取り掛かったのだが…
ウィンドウズが立ち上がったらパスワードを聞いてくる!何年か前に設定した時は無かったが初期化画面になった時に娘が入れた様子
「らしき」文字を何種類か適当に入れてみたが違うらしい。慌てて訊ねると「*****」とのこと。やっとのことでディスクトップ表示。
−このパスワード画面、再設定の過程で何度か繰り返した再起動の度に表示され、邪魔くさいのなんの…(笑)−
とりあえずはLANカードのドライバをインストール。ところが無線LANの暗号化モードがなんだったか忘れてた 拙PCを立ち上げ無線LAN管理画面にアクセスして、思い出す−というか今では又忘れている(笑)
作業前日にPC設定サービスをやっている知人に「セキュリティソフトのインストールが先かアップデートが先か」と訊ねたところ「メールを受けたり、サイトを見ない限り殆ど大丈夫」とのことなのでアップデートを開始。
というか、昨年版のセキュリティソフトがウィンドウズサービスパックが未インストールとのことでインストール出来なかった件もあり、アップデートしないとセキュリティが入らず旧版で1年を過ごしたのだが…(涙)
セキュリティが先と言われたらフリーの軽いセキュリティを入れる予定だったがパス。
2度ほどの再起動の末、アップデートは終了【と思った】
最後にウィンドウズサービスパックが残り、これが何度か繰り返しアップデートを掛けたがスグに完了したとヌケヌケとぬかし確認するとアップデートに残っている。どうやらウィンドウズサービスパックのインストールは無理なバージョンなのかとフリーのセキュリティを【拙PCで検索して】インストール。
次に『DVDをPCでも見たい』との仰せなのでMPEG2のコーデックを探すが、試してみたところファイナライズ済のTV番組録画DVDは認識してくれない。コーデック内蔵らしいフリーソフト「GOM・PLAYER」を試すがこれも認識しない。マテヨ!と市版DVDを差し込んだところ…ちゃんと映る。あれよと試しにTV番組録画DVDを横のPCに差し込んだら、これでも映らない。なにか形式が違うのかな?
あと、ituneをインストールして終了! と寝床についたが、布団の中で思い出した!「サービスパックをダウンロードしてインストールは試していない!」
2日目
早速、サービスパックをダウンロードしたら無事に長々とインストール作業を開始。VISTAの場合はSP1とSP2があり午前いっぱい掛かってやっとのことで完了。早速セキュリティソフトをインストール開始。シリアルNoは予め控えているから大丈夫と思っていたら…最後に「3台しかインストールできません、登録中になっているPCの登録を削除してください」と言われパスワード画面に…
パスワードはウロ覚え…「忘れた」をクリックすると仮パスワードをメールするからログインして再修正しろと…でも既登録のPCはパスワードを覚えている【実は先程にシリアルNoを確認しにサイトを訪れてパスワードを覚えさせていたことに気付いた】
別PCからログインをしてパスワード修正をかけてから【邪魔臭い】娘PCに戻り登録中になっているPCの登録を削除を… 息子PCの登録も削除しようと思ったが1つ削除したらインストール完了画面になってしまった。
これで完了と娘に渡そうとしたら『ipodにある曲を無くしたくない』との仰せ 無理なんじゃないかなと思いつつネットを漁る。Macの記事や有料ソフトは幾つかヒットしたが…と諦めかけていたら
『丹々荘日記』
http://d.hatena.ne.jp/tantanso/20100503/1272862592
なんてのがヒット!
早速「iPhone Explorer」をインストール ところがマイクロソフトのプログラムの1つが古くて走らないとの宣告。慌ててアップデートを見てみると百件以上の未更新が残っている。小一時間かけて更新−再起動 つづけてipodを差し込む前にituneをアンインストール【万が一、何も無いituneに同期されたら…ブルブル】
あとはプログ記事に従って作業をしてituneを再登録したらプレイリスト以外は無事PCに戻りました。
でも、まる2日かかったぞ!
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松茸酒のあとは松茸デミソースハンバーグ
2012年10月24日13:24
松茸酒って、ご存知だろうか?
松茸を生のまゝ水洗いして裂き日本酒に半日ほど浸したもの…
これが滅法旨い!松茸の香りが酒に染み渡り芳醇な味わいに大変身しており冷酒で飲っても美味しいフカヒレ酒よりも数段優ると信じているすぐれもの
しかも、別に高価な国産松茸でなくてもカナダ産や中国産・韓国産でも裂き方を細かくすれば充分に楽しめるし、2度目に酒を浸してもマダマダ香りはふくよかに漂う。
でも、でも…2度も酒に浸すと松茸からは香りがスッカリと抜けて、御飯に炊き込んでも焼いても茶碗蒸などに入れても美味しくない
スキ焼きに入れてみても松茸から日本酒の香りがして『松茸スキ焼き』の芳醇な味わいが無くなっていた
ならばと、デミグラスソースに入れてハンバーグソースにしたらエリンギのキノコハンバーグよりも歯応えのあるソースが出来上がった
今度からは、松茸酒のあとは松茸デミソースハンバーグだ!
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おじん的ジャニーズ曲のBEST5
2012年09月29日09:19
久々に、ニュース日記といふものを、オジンもしてみむとてするなり。
ギャル的人気歴代ジャニーズソング!
削除されたmixiニュース
ジャニーズの曲は
パターン1:僕らは若いんだ未来を信じよう
パターン2:あの娘と恋に落ちちゃった!
の2つとコミカルソングだけの気がするが…(笑)
つまり、ポップス歌謡曲で定番の失恋ソングが少ないのですね。
「少女まんがでは愛し合っているが別れるはOKだが振られるハナシは不可」
と言う某氏から聞いた話と似ているのかな?
と、言いながらパターン1、パターン2も織り交ぜベスト5(順不同)
Promise
Friends
大阪レイニーブルース
スニーカーぶる〜す
太陽のあいつ
さて、誰が唄っていたか全て言えるかな
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妙心寺から仁和寺へ至る道 2012年09月20日11:16
京都の古刹・臨済宗妙心寺派の総本山−妙心寺の北門の前に立ち、世界遺産の1つ仁和寺への道を尋ねられたら…どう答えるだろう?
おそらくは「この道をみちなりに斜め西へ進み嵐電妙心寺の駅を越え数百m程で五叉路にでます。そこが仁和寺の南東角であと200m程西に二王門があり入口です」が現在なら正答だろう。
でも18世紀半ばの森幸安の地図には、そのような道は描かれておらず妙心寺北門の前の道を直線的に双ヶ丘の麓まで進み北に折れると二王門となる道しか書かれていない。
おや?と思い明治22年(1889年)の測量を大日本帝國陸地測量部が作成した地図を眺めると同じくL字型の道しか書かれていない。
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2334.html
だが、同じく大日本帝國陸地測量部の大正11年(1922年)の地図には斜めの道がかかれている。
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2349.html
どうやら、この33年間に斜めの道は作られたのらしい。
日文研の所蔵地図データベースでその間の地図を漁ってみる。
約50枚の地図がヒットしたが、この頃の京都市上京の西端は紙屋川(下京は大宮)。京都市郊外は今の市バス路線図と同じく圧縮されてお座なりなものが多く、しかも仁和寺まで書かれているのは少数
公式な測量地図はこの間にもあるのだが、日文研の所蔵リストにはない!
しからば「地形図の楽しみ」
http://www.geocities.jp/nomonomo2008/
で探ってみると明治42年(1909年)測量、大正元年の5万分の1地図
http://www.geocities.jp/nomonomomaps20000/Kyoto/KyotoNorth/KyotoNorth.jpg
があった。ここには斜めの道がかかれている。
−20年間に道路作成期間は短縮−
その間の地図を日文研で再検索してみると…
「明治京都」−明治30年頃ヵ(1897年)には斜めの道が描かれ
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_25.html
「最新實測京都新地圖」−明治41年(1908年)には記入されていない。
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2245.html
(東が上の地図)
どうやら明治30年代に作られ知れ渡ったのが明治40代(大正)
この期間にナニがあったかを当たってみると…
京都電灯の北野線−現京福電鉄北野線(嵐電)が開業したのは1925年
上記の地図のどれにも軌道マークは書かれていない。
ただ、御室小学校−学校の歴史
http://www.edu.city.kyoto.jp/hp//omuro-s/sub2.htm
によると
『1898(明治31)年 現在の場所に移転。その後,御室尋常小学校と改称。』
とあり、1909年の地図には「文」マークが書かれているが、この移転が契機となっての道路敷設かどうかは確証はない。
ところで、アスニーの平安京模型には、この斜めの道が造られているのです
撮影禁止だから某所からのコピペ
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/2005to/ninnaji_en70.jpg
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我々は40年前に1人の青年を死に追い詰めた 2012年09月03日09:57
http://www.youtube.com/watch?v=fzMfxoe1Bis
(ピンク・ピクルス/一人の道)
父上様、
三日とろろ美味しゅうございました。
干し柿、もちも美味しゅうございました。
敏雄兄、姉上様、
おすし美味しゅうございました。
克美兄、姉上様、
ブドウ酒、リンゴ美味しゅうございました。
巌兄、姉上様、
しそめし、南ばんづけ美味しゅうございました。
喜久造兄、姉上様、
ブドウ液、養命酒、美味しゅうございました。
又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、
往復車に便乗させて頂き有難うございました。
正男兄、姉上様
お気をわずらわして大変申し訳ありませんでした。
幸雄君、英雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、
みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄 君、
裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、
立派な人になってください。
父上様、母上様、
幸吉はもうすっかり疲れ切って走れません。
なにとぞお許し下さい。
気が休まる事もなく、
御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
幸吉は父母上様のそばで暮しとうございました。
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TV放映『赤毛のアン アンの結婚』 2012年08月29日22:08
この8月24日と27日にBSプレミアムで『赤毛のアン アンの結婚・前後編』を放映。
ディスクに焼いてあり、やっと見てみました。
モンゴメリの原作から離れた独自ストーリーでWWIで出征したギルバートを探しアンが欧州戦線に赴く
という筋なのですが…
感想を言えばWWIを背景にするなら『アンの娘リラ』の戦場にいないが故の焦燥感の方が勝っています。映画中盤のダイアナとの絡みの調子を最後まで貫く調子の「リラ」の映画化で、できなかったのかなあ−
が正直な感想です。
時代的にもベトナム反戦の雰囲気を(まだ)引き受けていたでしょうし…
「リラ」に出てきた理解されない反戦主義者「月に頬髭」や善良且つ好戦主義者なスーザンのような魅力的キャラもいません。
脚本家には映画第2作−原作ならどれだったか失念−でギルバートがアンにアドバイスした『この島の話を書くべきだよ』を贈りたい。というかあまりにも【偶然にも】が多すぎるご都合主義展開で広い欧州で知人とアチコチで出会い、それがストーリーの展開に重要な出会いと言うシラケる脚本しか書けない方では、そんなことは高望みなのか(笑)
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宇多野と宇多川 2012年08月26日10:04
森幸安の葛野郡図には龍安寺の北に野原があり「宇多野」と記載され、そこから河川が流れ出て「宇多川」となっていた。
8/25拙つぶやき の転載
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今日から始まった「森幸安の世界7−洛外図」山科・伏見・鳥羽・嵯峨に併せて葛野郡図が展示 拡大図もあり18世紀半ばの右京区や山科区伏見区の様子が判り興味津々… 現在とは名称の場所が異なるものも散見。宇多野は現原谷で原谷はその東の谷、宇多川が宇多野から発して白梅町は何もない…
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さて…
幸安の「中古京師内外地図全」と大日本帝國陸地測量部 明治22年測量版地図を見比べてみると
幸安は平安〜室町にかけても現「原谷」を宇多野と記載し、そこから宇多川が流れていたと解釈していたことが判る。
一方、明治22年には字原谷との地名があり、仁和寺の西に宇多野村がある。【宇多川については判らず】
どうやら幸安の誤りで
「衣笠山と鹿苑寺(金閣寺)の後ろ山から流れ出た二つの渓流が、妙心寺域の北東(現谷口唐田ノ内町辺り)で合流。同寺域の東側を南流し、安井村域で西に流れを変え、西端(現太秦安井西裏町)で御室川に合する。」日本歴史地名大系
である宇多川と【原谷ではなく】龍安寺山田あたりから流れ出る山田川【御室小学校の校庭脇の小川】を混同していたと思われる。
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追記:鳴滝宇多野谷は原谷の西に接していることに、この日記後に気付いた。
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天神川−大慌ての修正 2012年08月24日09:17
前回の日記
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1866073765&owner_id=2145604
の誤りを、さる方に指摘されたので(大慌てで)訂正
1番目に、京都気象台の箇所に土砂が積みあがったのは10世紀までのことでありそれ以降は西堀川は流れを変えたらしいこと。
【昭和19年の放水路までの流路と同じかどうかは不明】
2番目に、天神川は御土居造営後も「暴れ川」であり続け、現島津製作所(三条通り辺り)には膨大な土砂の堆積が江戸時代にもみられること。
3番目は、御土居堀の堀は流れであって溜掘り−静止水ではなかったこと。
【都市防衛としては空掘でも有用であるとのこと】
以上3点で誤っていましたm(_ _)m
でも御土居袖の堀は紙屋川と別れた流路をもち遊水地的な役割を果したであろうことは考えられると思います。ただ、御室川と合流させる現流路までは十二分な治水対策ではなかったのだと思われます。
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西堀川と御土居堀 2012年08月20日10:18
この土曜日(18日)に京都地方気象台の庁舎拡大前の発掘調査の現地説明会へ行ってきた。工事まえには芝生が敷かれ百葉箱が置かれ開花宣言の桜などが植えられていた地は数mもあろうかという深い発掘地となっていた。
この地は平安京西堀川小路に当たり、しかも秀吉造営の御土居西側部にも当たり双方の遺跡が発掘された複合遺跡となっていた。その平安京建都時の西堀川小路の路面から御土居の跡として外周に巡らされた犬走り迄の間は驚くような状態だった。
2〜3mにも及ぶ土砂の層…つまり御土居造営までの800年間に渡り何度も何度も繰り返された西堀川(紙屋川・天神川)の氾濫の痕跡だった。この夏にも上流−仏教大学の西−で床上浸水があったとき言及されたように紙屋川・天神川は「暴れ川」として有名で昭和初期には西院大洪水を起こし、それがきっかけとなって天神川放水路を設け御室川と合流させる工事を行なったことは古老に聞けば覚えておられる。
そんな暴れ川な紙屋川が平安・鎌倉・室町の期間はおとなしかったハズもなく幾度となく氾濫を繰り返したことが、この2〜3mの厚みのある土砂の層だった。
しかし、犬走りから現地表面までは1mもなく、上層に京都測候所を作った時の整地があることから御土居造営から現代までの400年間に洪水・氾濫はあったにせよ土砂を多量に積み重ねる大洪水は無かったことが見てとれた。
御土居は都市防衛の機能の他に洪水を防ぐ第2堤防的な役割も担っていたことが、鴨川についてよく言われている。同じ機能が西の暴れ川−紙屋川・天神川にもあったであろうことが、この土砂層の薄さで判る。
ここで、いつもの妄想が湧いてきた。御土居の袖については成立因について種々様々な説があるが、洪水を防ぐパイパスとして袖の堀が機能しており、増水時には堀に紙屋川の流れを導き決壊を防いでいた−というのはどうだろう?そして南へは西御土居の堀と天神川の2つの流路にすることでも増水に対応した。そしてその御土居堀が埋まってしまった後、西院大洪水は起きた。
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目に見えない羅城−平安京 2012年08月10日09:57
先日、平安京創生館で長宗先生から長岡京で出土した人面土器が長岡京域の隅の地点だったと聞きびっくり!
昨年だったか考古資料館で人面の人気投票をしていたことは新聞で知っていたが、京域の隅から出土したことは見逃していた(^^;
続けて長宗先生のおはなしによると、四隅のうち残りの2ヶ所のうち東北と西南の隅からも祭祀跡が見つかっているとか…
これは延喜式に書かれている「道饗祭」か「京城四隅疫神祭」と同じものか、その前身の祭祀跡だろう。その「道饗祭」か「京城四隅疫神祭」について同志社女子大の山田教授は『城壁なき要塞都市〜平安京の境界祭祀』
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/kuni/yomo04.html
で、城壁こそ無かったが天皇を邪神から守るため、平安京への侵入路の東に蝉丸神社、南に石清水八幡宮、西に首塚大明神や篠八幡宮を配し第一次防衛線として第二次防衛線として『京の四隅でおこなわれた「道饗祭」という祭りであった。この祭りによって、京全体を目にみえない防壁で包みこみ、侵入する鬼神を撃退しようというわけである』と記されている。
でも、防衛線は砦のような点である神社や祭祀場ではなく、ラインとして配置されていたのではないだろうか?「道饗祭」か「京城四隅疫神祭」といった祭祀が京域の「道」で営まれたことに興味を引く。
網野善彦氏によると中世前期では(はっきりとは書かれていないが古代から)道は聖なる場所で日常の世界・俗界から離れた場所として認識されていたと書かれている。
「日本の歴史をよみなおす」
そのような聖なる場所「道」は2ヶ所の地点を繋ぐだけでなく、道の両側を隔て区分する機能も併せ持っていた。【京の両側町の成立は中世で坊条制では大路をへだてた向かいは別の坊なり条であったことを注目したい】また幾何学的な文様は洋の東西を問わず魔除けとしてられていた。中世の等高線に沿った道と違い古代帝国の道は地面の高低差を無視し直線路であった。
そのような聖なるものである道で、尚且つ直線的なものが「道饗祭」か「京城四隅疫神祭」の祭場を結んでいる。これ自身が魔除けとして機能していたのではないだろうか?故に京域周囲には羅城は不要だったのではなかろうか?平安京に限って言えば他の大路(8丈)より広い10丈なり12丈で一条大路・九条大路・東京極大路・西京極大路は計画されていた。人ではなく魔物を防ぐには物理的障害物は必要はない。ただ、人も魔物も防ぐには防壁が必要であり、宮域や内裏には築地塀が廻らされた。
藤原京・平城京・恭仁京・長岡京・平安京すべて京域が広すぎる。これも京域が大宮人や舎人とその家人を住まわすことを目的に定めた訳ではなく、大極殿を中心とした官舎や内裏を魑魅魍魎から護る目に見えない羅城−一条大路・九条大路・東京極大路・西京極大路と目に見える壁−大内裏築地塀の間に置かれたバッファーとして計画されたと考えてみるのも面白いかも知れない。
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愛と正義の為ならば…若干Jazzっぽく 2012年07月18日11:42
昔々、高宮成河から『東京中のジャズ喫茶のトイレに「月光仮面参上!」の落書きが書いてあった』と聞いたことがある(笑) …ということは高宮自身もそのジャズ喫茶を巡ったのか
その落書主、マイミクの感が臭う(笑)
日本で初めて開かれたファン主催によるマンガイベント…『日本漫画大会』のグループ紹介で白覆面にサングラスの扮装で登壇した奴がいた。その彼がトレースした好きな漫画家のCOM投稿作の扉絵をσ(^^)は今、mixiプロフィール写真に使っている…
-マイミク限定日記-
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延喜式付図 2012年06月15日00:40
「e国宝」に付図の全貌が載っている とアスニーで長宗先生に伺う。
http://www.emuseum.jp/detail/100162/066?word=%E5%BB%B6%E5%96%9C%E5%BC%8F&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=Rion=&era=&cptype=&owner=&pos=1&num=1&mode=simple¢ury=
凄い!こんなものがネットで見られるとは!
これが平安京や平安宮の指図
しかも平安宮については1尺=29.844518cmとするとほぼ正確という精度。
(平安京については結局、造営されなかった部分もあるらしいが...)
とりあえず、眺めてうっとりとしています(^^)
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お土居東北隅
2012年06月10日11:49
先日来の歴史案内板探訪、本日は加茂川中学横の東北隅
京都市バス[9]−比較的本数の多い系統−で堀川通りを北上
加茂川中学で下車して数十mも北に行かない堀川通り沿いの西側にこんもりとした土手が…
もちろん、これがお土居の北限。脇には雑草に囲まれた歴史案内板があった。文面を隠していた雑草をちぎり捨て、写メ
実はこの案内板は考古資料館で頂いたマップには載っておらず、写真が載っていた加茂川沿いのバス停へ移動。
御薗橋の手前でV字ターンして左に加茂川、右に中学を見ながら南へ十数mで加茂川中学バス停(先程に下車したバス停と同一名)
加茂川中学のフェンスの向こうに目指す歴史案内板はあった。なんか同一文面だなあと思いつつ…
帰路−と言うか通勤に向かうべく、地下鉄北山駅へ川添いに歩きはじめたが…結構な距離 元に戻って市バスで京都駅へ向かうべきだったと後悔し始めた時は既に、堀川通りとの距離も百mは離れていた
#付記:京都歴史散策マップを読み直したところ…載っていたのは最初に確認した案内板でストリートビューで場所を確認したのが後者でした
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忠津ウィーク
2012年06月05日10:08
忠津・忠津な1週間でした
前半戦初日は新作単行本が出ていると勘違いをして京都駅前の本屋を何軒か探索したが、見当たらず(泣)
それが、発売日前日だと知ったのが発売日当日の仕事間の休憩時間
翌日、慌てて西院の本屋を出勤前に巡る。2軒空振りをして、やっと3軒目で『フィアンセがいるのに』をGet!
http://www.amazon.co.jp/dp/4596954291/
文庫『美人はいかが』以来の、新作なら『冬恋物語』以来の忠津陽子。
両者ともネット購入だったから、書店で買うのは何年ぶりだろうか?
表紙の折込部に【最後に作品を描いたのはいつ? と調べたら、なんと15年前! 長いお休み…再び描ける幸せに感無量。】なんて書かれいる。その15年前の本『冬恋物語』にも【10数年の休業の末、…】なんて書かれいるから…合計30年に近い数字が...ハァ
オハナシは「ハーレクイン」でした(笑) 忠津陽子のベットシーンなんて初めて見たぞ!
でも絵は15年のブランクなんてとんでもない!
あとがきに【やっと 指が昔の状態を取り戻したのは終盤間近】なんて書かれているが冒頭からいにしえの雰囲気があり引き込まれる。むしろ『冬恋物語』(最終話を除く)より往年の絵柄と雰囲気はあまり変わっていない。
なんて、ことを忠津コミュに書き込んだら そのあとに
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先月発信された、ドコモのスマートフォンのAndroid用のアクションRPG
『ソーン物語』のキャラクターデザインを、忠津先生がされています
ホームページに原画が展示されてますよ
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なんて書き込みが…
Google先生に尋ねてみたところ
http://www.ti-sys.com/zorn1/pc/
がヒット!
キャラがずらっと並んでいたが、♂はパスして(笑)女性キャラをダウンロード
でかい!縮小表示を止めて100%表示にすると筆遣いまでわかる凄さ!
これなら印刷しても耐えられる… と言いながら携帯待ち受けに(笑)
PC壁紙も娘さん作の背景イラストと組み合わせて、「はやぶさ」が最期に送ってきたモノクロ地球写真(中断あり) と切り換えようかな。
あと、Google先生はゆつべでゲームのPVも教えてくれたが.......
鳥山明の絵とファミコン版ドラクエのゲーム画面の落差以上の差が…(笑)
あのテの絵は動かせないことは『モリシェリCoCo』や『ハニーハニーのすてきな冒険』で判っていたハズなのに
画像は書影と「ソーン物語」キャラのサムネイル2つ
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清水山古墳をウェブ航空写真で探す
2012年05月26日10:20
先日の天塚古墳探訪でウェブを見てみるとヨウダさんのサイトで
『そばの清水山古墳も破壊されてしまいました。』とあった。
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/rekishi/reki41.html
石碑写真があったので「京のいしぶみ」を検索すると
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/uk018.html
『昭和48(1973)年,宅地開発により破壊され消滅した。』
とあった。48年なら
空中写真初期選択画面
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WF_AirTop.cgi?DT=n&IT=p
に無いかなと探ったら
http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/74/ckk-74-15/c7/ckk-74-15_c7_8.jpg
これは74年で、壊されてから1年経ってました
ならば
国土変遷アーカイブ空中写真閲覧システム
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/
ならば、と探ると!
1946年の米軍撮影写真
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/GetPictureServlet?workname=USA&courseno=R275-A-7&photono=110&dpi=200
と
1961年の国土地理院撮影
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/GetPictureServlet?workname=MKK614&courseno=C5&photono=7005&dpi=200
があり、どちらも天塚古墳と千石荘公園の間に前方後円墳が...
46年から61年までは旧御室川の流路が消えたぐらいで、田園風景は変わらないですが74年になると天神川の東まで宅地は押し寄せてます。
ちなみに82年の航空写真になると
http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/82/ckk-82-2/c6a/ckk-82-2_c6a_13.jpg
はGoogle
やYahoo
の航空写真MAPと大差なく宅地化の波は終わってます
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太秦南東部 2012年05月24日11:24
太秦と言うと帷子ノ辻から蚕ノ社への嵐電沿線を思い浮かべがちだが…
山ノ内の西、流れの(マダ)ある西高瀬川辺りも太秦。
今朝は、京都市考古資料館で頂いた京都歴史散策マップの3『太秦・双ヶ丘』を懐に太秦南東部を探訪。
地下鉄太秦天神川を降り、謎な名前の交差点「三条御池」を西へ、デイケアセンターの前を南に西高瀬川を越えると目指す史跡天塚古墳
残念ながら、グラフィックが無かった!某コンテンツには使えない
無駄足だったかと、別経路で地下鉄駅への帰路中に児童公園の前を通りかかるとナニやらプレートが… 大正から昭和初期に航海用の船舶が海に関係なさそうな太秦に展示されていたとのこと。知らなかった。
三条天神川へ出てきたついでに、猿田彦神社−庚申堂に参る。地図で見ると平安京のスグ外。謂れ由緒の駒札でも…と探したが、何も無かった
#1枚目の写メ、どうせ某コンテンツには使えないなら、遠景か周りの景色も入れたものを撮るべきだった
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朝の平安宮巡り 2012年05月20日10:27
昨日、京都考古資料館で配布中のリーフレット『説明板で綴る平安宮跡』をいただいた。
それに拠ると平成23年度に建立の説明板が平安宮内に6点あるとのこと
早速ながら巡ってきました。所要時間は約45分
アスニーから二条駅へのルートです。
『宴の松原』
六軒町出水の石屋さんの脇にありました。ちなみに、この石屋さん 親父とお袋の名前を刻んで貰った石屋さん。建立は祖父の代だから知らない
千本通りを渡り、下立売を東へ…
『承明門』
下立売のビルの入口にあったのですが、向かいの酒屋さんに『紫宸殿』の源氏ゆかり説明板。
道幅の前庭なら桜も橘も貧弱だぞ(笑)
丸太町へ出て美福門の手前に
『中務省跡』が…
これ、以前の
が掠れ読めなくなっていたので再建立の様子。
あとは駆け足(^^)
丸太町を渡り、土屋町を下がると児童福祉センターの玄関西に
『太政官』
美福門通りに戻り、二条中学の校門脇に
『民部省』
隣の高校、府立朱雀高校の塀に
『式部省』
と巡り二条駅へ…
しかし、拙サイトのコンテンツは完全にリーフレットに負けている(泣笑)
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京都歴史散策マップからの情報で 2012年05月13日11:15
京都歴史散策マップからの情報で高陽院のパネルを探索
道の西にあると地図を読み間違い堀川から西洞院までジグザグ探訪
西洞院椹木町上ルの「麩嘉」さんの軒下で面白い地図を発見
それに拠ると高陽院の●は丸太町に面している。
高陽院ハイツなら、グラフィックはないからなぁ…と向かうと
平成23年5月作成のパネルが、ありました
1年も前に建たのか、知らなかった
撮影も終了し考古資料館に向かうと今出川大宮の角にプレートが…
本日は大漁 とニヤつきながら考古資料館で京都歴史散策マップ3部を頂く
本日、頂いたのは『嵯峨・嵐山』『岡崎・白川』『東寺・西寺』
残7部
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島原探訪(追記あり) 2012年05月04日00:01
5月の人権週間とのことで京都市バスや地下鉄にポスターが貼られていて、今回は史跡訪問として島原でした。その写真を見るとなにやら大門に説明板らしきものが…
早速、行って撮影
下の副碑に往年の島原の地図が記載
その後、帰路に向うと石碑案内があり
あと幾つかの石碑が島原にあることを始めて知った
それではと、何個かを撮影
・東鴻臚館の石碑 残念ながらグラフィックは無し
でも、1200年前も300年前も、ここに歓迎施設があったことが判ります。
・西門跡 これは往年の写真がありGet!
撮影後、千本七条に出ると松尾の御旅所から御輿の出るシーンに遭遇
とりあえず写真をアップ
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『亜庭じゅん大全』 2012年04月26日10:08
迷宮'11の漫画新批評大系のVol.16として刊行された『亜庭じゅん大全』
これは まんがファンダム史を語るには欠かせない資料としてだけでなく、「よむこと」を追求し、ひるがえりファンダム活動への苛立ちをみせるまんがファンダムを創り上げていった、ある一人の男の軌跡としての青春物語でもありえる。
自分語りを許して貰えるなら…
ひょっとして初めて買った『漫画新批評大系』かもしれない。
80年の冬コミを境にコミケに行かなくなった僕に82年のチャンゼロ新年宴会に亜庭は『漫画新批評大系』Vol.15を持ち込み僕に贈呈してくれた。そしてそれが亜庭と最期の遭う機会だった。
そして30年の月日が流れ…、改めてこの『亜庭じゅん大全』を手にとって見ると不思議なことに第一部の饒舌な「まんが語り」より第二部のMGM新聞に寄せる彼の苛立ちが垣間見える文章に興味を抱く。
同人誌とはなにか、即売会とはどの方向性でなさるべきなのか…彼の言葉は重く多少とも同人誌即売会にかかわった身にはのしかかる。
いや、こんな駄文より霜月氏もとい原田央男氏の大全に収められた解説文をよむべきだろう!そして村上知彦氏の漫画論者としての亜庭を論じた『亜庭じゅん、お前は誰だ?』を読むべきだろう。この2つの文により只の遺稿集でない『亜庭じゅん論本』≒『迷宮・同人誌論本』が提示されている。
僕が次にしなければならないのは、この本には収められていない『乏しき時代の表現者−Gomiの輪郭』への「ちゃうもん!」ではなく、より突っ込んだ反論なのかも知れない。
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アンティキテラの歯車と14世紀日本社会大変革説 2012年04月18日19:55
最近読んだ文庫本2冊
1.『アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ』
ジョー・マーチャント 文春文庫
http://www.amazon.co.jp/dp/4163714308
2.『日本の歴史をよみなおす(全)』
網野善彦 ちくま学芸文庫
http://www.amazon.co.jp/dp/4480089292
どちらもセンスオブワンダーな世界。
知らなかった事柄が次々と展開され新しい世界が広がっていく…
でも素人ながら「チトまてよ!」という疑問がブツブツと湧いてくるのも両者共通(^^)
アンティキテラの歯車については、この本を読むまでは歯車機械式のホロスコープと認識していたが、日月食の予測までをしたとも解釈されている。
−此処でチトまてよ−
日月食を予測する歯車構成はそんな簡単なものだろうか?海上保安庁の太陽位置を計算する簡易式プログラムですらc言語で十数行の記述だった…
サロス周期なりエクセリグモス周期でも食が起こりうる年であっても、確実に食が観測される年ではない。逆に紀元前1世紀に作られた機械は何年前までの食を正しく指し示しただろうか疑問が湧く。
まぁ「食が起こるかも知れない年です」程度なら納得するし、作成者≠使用者であったらしいから【使用説明のギリシア語が書かれていた事から作成者が使用者と同一なら不要なものと判る】多くある表示機能の1つではあっただろう。でも過去の日月食の日時との検証は作成者はしたであろうが、使用者は可能だっただろうか?使用目的はホロスコープじゃないかな が正直な読後感。
『日本の歴史をよみなおす(全)』も凄い!
13世紀から14世紀に日本社会は劇的に変化したと説く。個人的に興味のある京都史については触れていないが思い当たるフシが多々ある。
足利先生が、平安京の庶民住居の戸口は大路小路に面して開かれておらず、一町は垣で囲われた単位で戸口は内側に向って開かれていた と言われていたが大路・小路に面した戸口のある京町屋の原形は「一遍上人聖絵」などを参考にすると13世紀末から14世紀初頭に現われたのではないかとされること。
又、四百八十寺とも八百八寺とも謳われている京都の寺々は遷都時には東寺と西寺しかなく、平安京の羅城域に寺や神社を建てることへの忌諱は道長や白河・後白河のような権力者でも法成寺、法勝寺、法住寺など全て平安京の外にあり、鎌倉初期の法金剛院まで続くが
妙顕寺 1334
妙心寺 1337
等持寺 1341
本圀寺 1345
妙覚寺 1483
と14世紀に相次いで平安京の中に社寺が建てられている。
そのことからも、社会的な変動は13世紀から14世紀に起こったとの説は腹に入ってくる。
でも後半部の日本社会が農業社会でしなく「百姓≠農民」という疑問を投げかけている。そこでは百姓が商人や海運や工業などを営む姿を描いている。でも、そうだとすると町人とされている人たちは一体なにをもって百姓ではなく町人であったのかが示されていない。最大の不満点でもある。
でも、この説を採用すると江戸時代の石高の合計は推定人口で割り返すと零細農民まで米食していたはず との説も石高の合計の米を収穫していたか との疑問も生じてくる…。
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Sixty-One・・・ 2012年03月17日09:04
mixiの新サービス「mixiバースデー」
今朝、開けることが出来ると思っていたら今日が終わる24時だった…
どうせ、たいした物では無いだろうと思いつつ…ナゼかウキウキする(笑)
どんなものだったかは、このウキウキ感をこれから誕生日を迎える諸氏に味わって貰いたく伏せることにします。
と、いう訳で本日n回めの(表題にしているのにナゼ伏せる)誕生日
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GoogleEarth PEIの衛星写真 2012年02月29日11:08
GoogleEarthのPEIの衛星写真(航空写真?)が更新されました。
更新された個所はキャベンデッシュ交差点のあたり
ということで…グリーンゲイブルスをみてみました。
(残念ながらストリートビュー車は入っていない様子)
俯角を大きくとったもの
北を上にして真上から見たもの
ゴルフ場のど真ん中にあることがよく判ります。
(農園か牧場の中にあって欲しかった)
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「京都のグラフィカルな歴史案内板」はIE限定だった(^^; 2012年02月01日21:29
昨年の末から触っている拙サイト「京都のグラフィカルな歴史案内板」
https://gomi17.web.fc2.com/hiskyoto/annaiban.html
を改造すべく、今まで全ての画像・データを読み込んでから表示させていたが、
インラインフレームを採用して個別の画像・データのみを読み込むようにと修正した。
その中間テストでsafariとChromeで表示させてみたところ…
奇妙なことに気付いた。インラインCSS指定している表題はマトモに表示されているのにEmbeddingやLinkingでCSSを指定している個所は先頭指定の<BODY>タグしか反映していない!
…つまり、得意げにサイト案内をしていたが今の今まで拙サイトはIE限定だったとorz
慌てて修正に掛かったが既に170ヶのHTMLファイルに分解していた…なんやかやで、実質2日半【のべ日数は言いたくない(笑)】かかりました。
でも、firefoxやoperaは持ってないし確認できない−ましてやMacなど…
画像にIEでの画面を上げておきますので、大きく違う方は一報をm(_ _)m
ちなみに、2番目の画像がsafariでの旧版、3番目がsafariでの更新後
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募‖大学が舞台の学園マンガ 2012年01月20日14:44
中国オタク的に大学が舞台の作品が少ないのは不思議
削除されたmixiニュース
つぶやきに
『確かに華流ドラマでは「花男」にしても「花君」にしても韓流や本邦と違い高校ではなく大学が舞台だったというか華流学園ドラマは殆どが大学』
と言ったが、本邦マンガを考えて見ると一風変わった大学しかないような気がしてきた。
まあ「南河内大学」や「東淀川大学」はさておき(笑)
『ハチクロ』や『のだめ』は芸大だし
−いや、芸大が変わっているのではなく、学生が
出身校にも芸術系の学科があったが、一風変わったのとずっと一緒に…−
渡会けいじの『鴨川ホルモー』は確かに正統派な学園スポーツ恋愛ドラマだが…亜庭じゅんの出た学校が舞台、変わってないハズがない(笑)
もとい!元々が文学作品のマンガ化だからなあ
という訳で、正統派の学園スポーツマンガか学園ラブストーリーマンガで大学が舞台なものを求めます。
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バカ漫画14…笑いモノにしている者が逆に 2012年01月18日13:21
「飛鳥幸子」をキーワードにイロイロとネット検索をしていたら…
『バカ漫画14ロボット・ワールド』なるものを発見
http://www.chukai.ne.jp/~gallery/baka14.html
え〜とこのサイトの筆者への異論はイロイロあるでしょうが(笑)
画像はタップリあるので堪能を!
SFを判りすぎている者の変化球だと読み切れていないのは…何と言っていいのやら
笑いものにしている者が、逆に無知をさらしている…という恥ずかしい構図になってます。
手塚治虫のSFマンガを古臭いと言っているのと同じ いや!と言うより
野田昌宏のSFを古臭いと笑いものにしているのと全く同じ構図ですから…
驚愕の解説セリフの数々を
「よりによってこの方、大チャレンジしたものです。編集者の方針か?」
「作者にSFの素養など欠片もないのでは?」
「やっぱりこの人ファンタジー向きだよなぁ・・・・。」
「少なくともSF向きではなかろう(笑)。」
この筆者-マンガ古本を扱う方らしいですが…
「少女漫画の草分けの一人でございまして、マニアの間でこの方の単行本は、かなりの高値で取引されております。うちも高く買い取りますので」
と書かれているが何故に人気があるのか、全く理解されていない様子(笑)
ちっとは、その高価な単行本を読めよ
で、SFを理解されていると竹宮惠子学部長へは
「竹宮恵子などがSFに憧れ、コマの枠外などに「ブラッド・ベリ最高」」
とか高く評価の様子です。
その竹宮恵子氏は新書館版の「怪盗こうもり男爵」の解説で
「作者はきっとSFが好きで、…話のわかる描き手が出てくれたなァ、とワクワクしたものだ。」と流石に判ってらっしゃる。
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謹賀新年(サイト開設のご案内) 2012年01月01日21:17
明けましておめでとうございます。
先日の日記でもチラっと言った『Gomiなページ』の別館を開設しました。
『Gomiな京都史とマンガファンダム勃興史』
https://gomi17.web.fc2.com/
内容は表題通り『Gomiなページ』の京都の歴史とマンガファンダムの勃興史についてのコンテンツとmixi日記を順次、引っ越す予定です。
というか『Gomiなページ』
http://homepage3.nifty.com/nakagomi/
の容量が小さいので画像を多く使うコンテンツを別館へ移動させることにしました。
今までは画像保管サイトを使っていたのですが…遣い回しが遣り辛いこともあって…
一応『Gomiなページ』
http://homepage3.nifty.com/nakagomi/
のトップからのリンクは別館ですが各ページは(マダ)残ってます。ただ順次
「自動的に飛ばすか引越リンクの提示」表示にしてHTML文以外は消去予定。
#HTML文を残さないと各リンクを貼って頂いてる皆さんにご迷惑を…
まあ以後、別館もご贔屓に
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