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Gomiなmixi日記(2017)

mixiで書いた日記をウェブにも置いておきます。日記中でURLの書かれていないリンクはmixiへのリンクなのでmixiIDが必要です。

地理院地図が面白い 2020年12月04日13:57
地理院地図【http://maps.gsi.go.jp/】という地図サイトがある。はじめはポインターの部分の緯度経度標高が判るので利用していたが、色々な土地情報をオーバーレイできる機能があることに気づいた。
戦後すぐ位からの航空写真や高低差を色分けしたり地質図など各種さまざま。その中で「明治期の低湿地」という項目を上に乗せると、どうやら明治中期の陸地測量部の迅速図の水田と湿地・河川湖沼池・河原をピックアップしたものらしい。
あまり拡大すると消えてしまうので適度な縮尺で止めるとお土居の当時の残存部分や天神川・御室川がクッキリと浮かび上がった。


地図をpngに落とす機能もあるので落として、お土居のラインを画像ソフトの太線で強調してみた。それを拙サイト「京都の歴史重層地図拡大可能版」https://gomi17.web.fc2.com/hiskyoto/heian.htmlで読みこんで法金剛院を上に表示させると…


お土居の袖の北半分は乾燥地帯で確かに明治22年陸地測量部の「京都」では妙心寺の南門に続く道【下立売】に家が並びその南は竹林になっている。


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「京都のグラフィカルな歴史案内板」にストリートビューを追記 2020年12月01日12:13
史跡西寺1 史跡西寺2 中世相国寺

拙サイト「京都のグラフィカルな歴史案内板」
https://gomi17.web.fc2.com/hiskyoto/annaiban.html
にストリートビューをフレームで付け加えてみました。

A1の二条駅前の「平安京朱雀大路」ならこんな風に。

だいたいWebブラウザをフルスクリーンで見るのはyoutubeを見る時ぐらいなので(笑)ある時に「京都のグラフィカルな歴史案内板」をフルスクリーンで見たら右側がスカスカなことに気づき…、しかも古いヤフー地図へのリンクが安全性がないとセキュリティソフトに拒否されて確認できない場所が多数。

元々12年前に1024x720のサイズで設計したページだから1920x1080のモニターなら約倍の横巾に余裕があるからヤフー地図でピンを指してストリートビューで周りが見渡せる。しかもヤフー地図やストリートビューがリンク切れを起こしたらスグに判る。

ということで改造に取り掛かったが拙サイトは所定の位置に各々のデータを流し込む構造ではなくて脇フレームに別に用意したページを読み込む構造だから二百数十件のHTMLファイルを訂正することが余儀なくされた(泣)

しかもストリートビューで該当の歴史案内板を探すのが、これまた面倒(笑) 狙った位置の撮影されているのは殆どない。しかも近すぎるのはグニャッと画像が曲がりくねっているわ、勝手にストリートビュー車は対向車線になって遠くになるわ、見知らぬオッサンが歴史案内板の前に立ちふさがるわ……

何点かは撤去された様子で過去のストリートビューに切り替えて、やっと見つけたり【京都会館の横にあった歴史案内板はロームシアターになってから無くなったみたい】びっくりしたのは、とんでもない所までストリートビューカメラが入っていて、お寺や神社の中とか、地下鉄のコンコースとか、公園の中とか、河岸の遊歩道とか……ありがたくフレームを貼りましたが捜すのが面倒、面倒。その間にストリートビューには見知らぬプレートに改修されていたり、新建立を見付けたり(笑)その画像を置いておきます。

どうしてもストリートビューでは遠景やエントランスすら意味をなさない箇所はストリートビューを諦めてグーグルマップ航空写真を最大にして誤魔化した。具体的には北野天満宮、府庁旧館中庭、阪急烏丸駅入口、京都国立博物館西庭、双ヶ丘鞍部、樫原廃寺、平野のお土居。意外な所では京都市動物園、実は古いプレートを含め園内は改修前の風景で新しい法勝寺の塔のプレートがストリートビューでは見当たらない。

なんやかんやで……10日間というか約一週間強も訂正にかかった。
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『地下室メンバーズクラブ』40年目で見つけた佳品 2020年08月27日13:18
とあるマイミクさんに教えられ某作家のレディコミをWebで捜していた時、
無料閲覧可能な女性コミックの中に夢野一子先生の作品があったのを見付けた。

早速、読んでみたところ『同じ著者の人気漫画』とのリストが表示され
『白い道化師』という単行本が提示された。
https://www.sukima.me/book/title/BT0000391408/

読者レビューには表題作の感想しか載っていなかったが、
併載の『地下室メンバーズクラブ』

これが滅法おもしろい!絵柄は『僕はムコ養子』や『この女に賭けろ』より丸みを帯びたタッチだがストーリーとの相性は抜群。

中学生たちが「秘密基地(^^)」を創り育て失っていくストーリーなのだがマーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』やリチャード・チャーチの『地下の洞穴の冒険』を彷彿させるワクワク感が50Pの短い頁数の中で充分に語られている。サブキャラもチャンと性格に深みがあり、造形も一見して判るような「いかにもモブキャラ」でないだけに青春群像ものとしても読めて、しかも過剰にコメディに逃げてなかったことも凄い!

少女マンガお決まりのラブストーリーは、やや消化不良だがローティーンのクラス一体となった高揚感は『3月ウサギが集団で』や『スクラップブック』と並ぶか、より上かもしれない。

78年の別コミ作品とのことだが なんで40年前に読まなかったのだろう…orz
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読後雑感『萩尾望都と竹宮惠子』 2020年04月15日12:49

『萩尾望都と竹宮惠子 大泉サロンの少女マンガ革命 』
https://www.amazon.co.jp/dp/4344985869/
半世紀前の革命として「大泉サロン」を取り上げ論じたのは面白いが、革命に対するアンシャンレジームが具体的に誰のどの作品か位は挙げるべき。そして腰巻には書かれている「ラブコメ」と「背景に薔薇や蘭」は否定する立場か否かが、編集者の無理解との文で流されている。
「大泉サロン」の3人と徹夜まんが論を交わした記憶から言うと、彼女らが否定的だったのは、テンプレなストーリー展開だけだったような記憶がある。そしてその否定される作品を量産していたのは 括弧付きの「24年組」に論者によれば入ってくる当時の雑誌メインだった新人賞作家たちで、旧来からの母ものメロドラマの作品では無かったと思う。

個人的な意見を言うと 、新人賞作家たちが旧来からの母ものメロドラマの作品から「ラブコメ」で「欧米風キャラと欧米風舞台」の作品を書き始めた時の方が革命的だったのではないかと思う、たとえストーリーがテンプレなものが多かったにせよ…。

閑話休題
そして革命との言葉に対して本文中に《前衛的、先鋭的でありながら大衆と直結するもののみが、革命として成功する-------萩尾望都と竹宮恵子の革命は、この法則にあてはまる》とプロローグで書かれていながら、本章の中で読者として対応したのは後にプロになりサロンに集った方々と、本来イデオローグとして情報発信すべき立場だったが「サロン」の主宰者となった増山さんだけというのが、なんとも弱い。
革命とするならば呼応した大衆としてのコミケも語るべきだし
反革命としての その後の少女マンガ状況 ――
【テンプレストーリー】の蔓延と【欧米風キャラと欧米風舞台の衰退】への言及が多少なりとも欲しかった。
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【「京都」の誕生】読後雑感 2020年03月30日11:33
先日購入した本 『「京都」の誕生』
https://www.amazon.co.jp/dp/4166612573/

知らなかった史実がイロイロとあり興味深く一気に読め、お勧めの平安京史新書と思う。

しかし、結論部の「平安京は院政期から源平期に武士(平家)により鳥羽・白河・六波羅・法住寺を加え朱雀大路を西端として七条から八条を整備して造り替えられ京都となった」との論旨は多少の疑問と異論が興る。

確かに院政期に加えられた鴨東地域は現京都市の主要地域であり、千本以東の七条八条間は京都駅を中心とし京博・鉄博を含めた繁華街ではある。だが鴨東が京域に含まれたのは宝永の大火(1708年)以降だし七条から八条への拡大は鉄道の敷設まで待たなければならない。
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/toshi_hensen.html

本書のあとがきにも記載されているように白河院から始まり平家が築いた都市は太郎焼亡から元暦地震により滅び恵たのではないだろうか。そして中世都市-京として四行八門が崩れ街路に戸口が開いた都市は天正地割とお土居による範囲の限定により京師として生まれ変わった。

現京都が生まれたのは大路小路が復活した市電の敷設-大正時代になるのかもしれない。
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月光稲荷大明神-江戸時代の標準子午線 2020年03月21日17:43

本邦の標準子午線といえば東経135度とは誰でも知っていることだが、グリニッジなんて気に掛ける必要もない鎖国期の江戸時代は何処を基準としたかご存知だろうか?

実は江戸城ではなくて平安時代より暦を作っていた宮中のある京都を基準としていた。暦は陰陽師の職種であり安倍晴明を始祖とする土御門家がその任を担っていた。そして天体観測をしていたのは屋敷のあった御前通八条とその東・御前通梅小路にある菩提寺-梅林寺と言われている。

その宮中で発行していた暦を江戸幕府は貞享暦よりその任を担うようになったが観測データを得て改暦する必要が生じ京都西三条台改暦所を造り、そこで天体観測をして寛政暦を定めた。この京都西三条台改暦所は梅林寺の真北【御前通東入ル】に当たり土御門家の観測を相当に意識して場所選定したものと伺える。

この京都西三条台改暦所が19世紀より標準子午線の基点となって伊能忠敬の日本地図もこの線が零度の経線となっているとのことらしい。

https://goo.gl/maps/Ps17T7bzEwL4b6tQA

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月光稲荷神社 御由緒

御祭神
 祇園 牛頭天王
 正一位 月光稲荷大明神
 愛宕山 大権現


御由緒
  月光稲荷神社の起源は今から約一九十年前の寛政十年(一七九八年)に武信
  稲荷神社(創紀 貞観元年…八五九年…現 三条大宮西二筋目下ル)より分
  神してこの土地の守護神として鎮座されたことに始まる
  ここ西月光町の土地は寛政八年(一七九六年)当時の地名は山城の国葛野鄙
  字月光といい建仁寺(現東山区)寺領であったが当時の徳川幕府(十一代将
  軍 家斎の時代)の命により京都所司代によって銀四十貫(江戸時代の通貨
  の単位)を費やし約千五百坪の土地に土砂を高さ一尺五寸(約四十五糎)に
  盛り上げ天文台(寛政暦施行の準備のため)を設置した しかし大変湿気が
  多かったため早くも寛政十年一月(一七九八年)に天文台は廃止され跡地は
  払下げられた  この払下げを受けたのが当時の瓦師丁(現在の中京区神泉
  苑瓦師町゛の五名の住民であり村の名前を西三条台村と称し守護神として前
  述の武信稲荷神社よりの分神を祭ったのが起源である
  この御社は創建当時は現在の御前姉小路東入る井筒屋才次郎宅内(元 山本
  善雄家)にあったが明治六年(一八七三年)現在地に移転した

  尚 境内にある石の常夜灯には嘉永五年子歳冬(一八五二年)の銘があり又
  昭和四年建立の石の鳥居に発起人として五名(荒木、前田、西田、山本、佐
  竹)の名前があるが これは当初移住してきた住民の子孫である
  祭礼としては十一月に…お火焚祭を行っている

このお稲荷さんには昔この地区の氏神さんであっ
た八坂神社の御祭神の牛頭天王と火の神様の愛宕
神社の祭神を併せて祭っています
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『京都の歴史重層地図』に「京都歴史復元ベースマップ」を 2019年07月04日09:41


拙サイト『京都の歴史重層地図』https://gomi17.web.fc2.com/hiskyoto/heian.html
に長宗先生の力作「京都歴史復元ベースマップ」を読み込み可能にしてみた。

上に山田邦和先生の戦国期上京図を表示させ拡大表示させてみたところ… 

ぉぉぉ!妄想が沸き立つ沸き立つ(笑)
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京都の前方後円墳 2019年05月14日23:50
仁徳天皇陵が世界遺産に指定されるのを受けて
京都の前方後円墳をGoogleEarthで探してみた。
urlはGoogleEarthで表示されたgooglemapsのアドレス

その1.仲野親王塚

9世紀に死去した桓武天皇の皇子の墓とのことだが形式からみて6世紀の古墳とのこと。
https://www.google.com/maps/@35.01664,135.69975,355m/data=!3m1!1e3

その2.蛇塚古墳

完全に封土は失われていますが住宅地の輪郭線が鍵穴型なことが判る。
ところでネットで検索したが封土がいつ、失われたか不明。
https://www.google.com/maps/@35.0119,135.70024,355m/data=!3m1!1e3

その3.天塚古墳

昭和の中頃までこの古墳の北に同規模の清水山古墳があったが宅地造成で消滅とのこと。
航空写真で見ると広い道路がスグ南にあるように見えますが実は自動車工場の構内路
https://www.google.com/maps/@35.00712,135.71221,355m/data=!3m1!1e3

その4.天皇の杜古墳

天皇の杜との名は明治の初めに全天皇の整備指定するまで文徳天皇陵とおもわれていたから。
尚、この一帯の地名は御陵と書き【ごりょう】と読みます。山科区にあるのは【みささぎ】
https://www.google.com/maps/@34.97752,135.68956,355m/data=!3m1!1e3

因みに仁徳天皇陵・大仙古墳を同一縮尺で表示すると

https://www.google.com/maps/@34.56202,135.48616,357m/data=!3m1!1e3
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上杉本洛中洛外図と中昔京師地図で15世紀京都へ 2019年04月23日22:48
以前、応仁の乱直後の京都の地図「中昔京師地図」をA4用紙4枚にプリントアウトして貼り合わせA2ポスターを作り壁に貼っているハナシをしたが…



その地図とほぼ同時代の俯瞰図「上杉本洛中洛外図」をA4用紙3枚で右隻と左隻を同じように作ってみた。



並べてみてみると15世紀京都へタイムスリップ。
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京都のグラフィカルな歴史案内板が200枚に到達 2019年03月19日20:56
樫原廃寺 古墳の種類 天皇の杜

拙サイトコンテンツ「京都のグラフィカルな歴史案内板」
https://gomi17.web.fc2.com/hiskyoto/annaiban.html
で紹介の歴史案内板が、ついに200枚になりました。

最初は「源氏物語ゆかりの地」の案内板40枚を撮影行している時に、同じ場所に同じ遺跡の案内をしている金属プレートの写真や地図・イラストを使った案内板をチラホラ見かけ、駒札や石碑にない想像力をかき立てる構成に惚れて集めだしたのですが…

当初は「源氏物語ゆかりの地」より少ない数かな との予想を裏切りあっという間に40枚を超え100枚に御池道標と嵐山の勅撰和歌集案内を加えて届いたのが2年後の2010年

あと100枚に9年掛かったことから、300枚はムリかな(笑)

画像は追加の樫原廃寺と天皇の杜古墳
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「京都のグラフィカルな歴史案内板」への追記と連番変更 2019年03月15日20:56
拙サイト「京都のグラフィカルな歴史案内板」
https://gomi17.web.fc2.com/hiskyoto/annaiban.html
に新案内板「FH:応仁の乱と細川勝元邸」を追記しました。
応仁の乱と細川勝元邸

今回は応仁の乱の東軍細川勝元にスポットを当てこの案内板付近を西陣に対する東陣と位置付けた様子。同女大の山田邦和先生作成の地図と上杉本の洛中洛外図で往時の様子を示すなどナカナカ豪華。撮影後、近くだったので考古資料館へ行き訊ねると近々第2弾の案内板を建てるとか。楽しみ、楽しみ。

追記したついでに永らく放置していた連番を英文字やひらがな・カタカナ・ギリシア文字・キリル文字などごちゃ混ぜだったのを、エクセル列風のA0.A1.A2…AY.AZ.B0.B1…に変更。
時間がかかるかなとのビビリで放置していたのだが、htmlファイルをリコー・マイツールに読み込ませて列分解してコチョコチョしたあと16進コード作成のアルゴリズムで36進変換すると、案外短時間で出来上がった。
ただjavascriptに読ませていた連番が1から始まっていたのでA0からでなくA1からになったのは御愛嬌(笑)
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京都リサーチパーク「平安貴族のくらしと文化展示室」 2019年03月07日14:14
京都リサーチパーク「平安貴族のくらしと文化展示室」へ行ってきました。

実は法金剛院の建立に伴って再整備されたという平安後期の西京極大路についてネットで検索していた時、
検索ワードに「平安京右京一条四坊十三町」を入れると「平安京右京六条一坊六町の邸宅跡」という
拙収集のグラフィカルな歴史案内板 https://gomi17.web.fc2.com/hiskyoto/annaiban.html には載っていない
歴史案内板がヒット!

早速、2次検索・3次検索をすると京都リサーチパーク1号館北側歩道にあることが判り撮影行へ…
< リサーチパーク

撮影後、前回の探訪時【案内板を探しに行ったが結局、見つけられなかった(笑)勿論2002年以降】は
閉じていて見ることが叶わなかった貴族屋敷模型はどうかな? と廻ってみたところ
「希望者は2号館事務室へ」と掲示されていた。【前回はその掲示は無かった】

事務室へ行き訊ねてみたところ即、かぎを開けてもらい写真撮影も可とのこと。
早速パチバチと貴族屋敷を…




邸宅の本殿だけでなく北にあった廚や田園風景まで再現していたことは些か驚き!
この屋敷内の畑や田の収穫物については非課税であり屋敷内に税務官が入れなかったことが「不輸不入」のおこり。

展示室内には模型だけでなく発掘時の解説パネルや時代解説・発掘遺物の展示解説もありました。




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読書雑感『平安京はいらなかった』 2019年02月19日16:55

高校の先輩でfacebookでの友達の一人でもあるSさんから勧められたこの本。
『平安京はいらなかった: 古代の夢を喰らう中世 (歴史文化ライブラリー)』桃崎有一郎著 吉川弘文館 
https://www.amazon.co.jp/dp/4642058389/

実に面白く、読み始めると止まらなく一気に読了し「もったいない」とスポンサー(嫁)から小言を頂いた(笑)
内容は表題の「いらなかった」がキーワードとなり、広大過ぎて結局のところ四隅のうち東北部以外は造営されなかった京域・巾員が車で溢れる現代でも不必要な大路小路が説かれている。

ただ、平安時代の直前の長岡京で四隅道饗祭で人面土器が出土したように四隅と京域は平安時代より遥か前から長岡京まで例祭が営まれてきたから、平安京でも四隅は正確な位置は祭儀上では意識され把握されていただろう。ただ都市空間がなかったに過ぎないとも思う。京域が都市空間である必然性はなく、いわゆる結界として宮城を魑魅魍魎から守る防御線として認識していたのではないだろうか。だから長岡京で桂川が京域内を流れても、恭仁京で木津川が京域内を流れても構わなかった。また本書中でも言及している城壁がなかった理由にも繋がると思う-京域内に侵入することを防ぐのは人ではなくて魑魅魍魎であったから。

朱雀大路が82mの巾を持ち非実用的だったことは本書に限らずイロイロと語られて平安中期には牛馬の飼育が行われていて禁令も出ていたことは本書でも述べられている。ただ渤海使節の応接にのみ使われていたと思っていたが大嘗祭にも使われ標山の巡行が朱雀大路で行われたことは本書で初めて知った。大嘗祭の標山は祇園祭の山鉾の原型として知られている。

ただ、朱雀大路の広すぎることを強調するあまり、いわゆる大路小路の巾が現代の車社会では普通の巾員なことが省かれているのは残念と言えば残念。大路の8丈といえば24m…片道2車線歩道付きの幹線道路とほぼ同じであり、小路の4丈12mは片道1車線の対面通行道路とほぼ同じなことは平安京オーバレイマップ
https://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/theater/html/heian/
で平安京七条大路と現代七条通りを重ね合わせてみるとすぐに実感できる。

ただこの時代は牛車を持てる家柄が百軒余りしかないことから、現代京都でフェラーリやポルシェに乗ってすれ違う確率と大差なく(笑)対面通行にする必然性は殆どないだろうから本書の結論には響かない。
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新たな歴史案内板の撮影 2019年02月13日21:19
拙サイトコンテンツ『京都のグラフィカルな歴史案内板 』
中村武生先生のブログ
http://blog.canpan.info/shiseki/archive/28
を久々に訪れると新たに案内板の建立とか…

早速行ってみた。
七重塔跡
西郷隆盛となっているが、どちらかと言うと相国寺の塔の方が興味深い。
実は探訪の為に市バスを降りて同女の脇を歩いている時に別の案内板を発見!

慌てて山田邦和先生のブログへ行ってみたが
井戸と地下通路についての記載は見つけられなかった…
拙サイト
https://gomi17.web.fc2.com/hiskyoto/annaiban.html
で紹介している東門の案内板関連の記事しか…
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鴨川ギャラリー 2018年07月30日22:11
京都府の建設交通部河川課が鴨川の橋の下に京都の歴史案内パネルを設けているのをご存じでしょうか?

拙サイト『京都のグラフィカルな歴史案内板』 https://gomi17.web.fc2.com/hiskyoto/annaiban.html
でも紹介していますが、ここでも…

Ω:鞍馬口:出雲路橋

鴨川の各橋の下にある鴨川ギャラリー:出雲路橋にある鞍馬口・鞍馬橋の由来と吉田初三郎の鳥瞰図です。
クリックでyahooMapを表示します

出雲路橋
京都観光Naviのコンテンツです。
デジタル展覧会「京の鳥瞰図絵師 吉田初三郎」鳥瞰図
府立資料館のコンテンツです。このページにある各pdfは拡大表示を強く勧めます。

Б:葵祭:出町橋

鴨川の各橋の下にある鴨川ギャラリー:葵祭の案内です。
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出町橋展示物詳細(PDF:290KB)
鴨川ギャラリーオフィシャルサイトの出町橋展示物詳細PDFです。
葵祭
フィールドミュージアム文化史26

Д:現在の京都・平安時代の京都:賀茂大橋

鴨川の各橋の下にある鴨川ギャラリー:現在の京都の航空写真と平安京創生館の模型写真の案内です。
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京都市平安京創生館常設展
京都市平安京創生館の常設展示案内です。
平安京を見たい2
平安京探偵団のコンテンツです。
制作時の様子がうかがえます。

Ψ:時代祭:丸太町橋

鴨川の各橋の下にある鴨川ギャラリー:丸太町橋にある橋の由来と時代祭の案内です。
クリックでyahooMapを表示します

丸太町橋
京都鴨川風光のコンテンツです。
京都三大祭・時代祭
時代祭オフィシャルサイト:平安神宮サイトのコンテンツです。

Φ:上杉本洛中洛外図屏風:二条大橋

鴨川の各橋の下にある鴨川ギャラリー:二条大橋にある上杉本洛中洛外図屏風の案内です。
クリックでyahooMapを表示します

上杉本洛中洛外図屏風
国宝上杉本洛中洛外図屏風を所蔵する米沢市上杉博物館のコンテンツです。
鴨川ギャラリー
建立した京都府のオフィシャルサイトpdfです。

З:河原での遊楽:御池大橋

鴨川の各橋の下にある鴨川ギャラリー:江戸時代の鴨川河原での遊楽様子案内です。
クリックでyahooMapを表示します

華洛四季遊戯図巻
文化遺産オンラインのコンテンツです。
クイズ 屏風編 SCENE3 〜二曲一双 四条河原遊楽図屏風〜祇園祭 祭礼篇
ポストカード音楽会のコンテンツです。

Ж:四条大橋の歴史と祇園祭:四条大橋

鴨川の各橋の下にある鴨川ギャラリー:四条大橋の歴史と祇園祭の案内です。
クリックでyahooMapを表示します

1890年代の京都・四条大橋
Old Photos of Japanのコンテンツです。
祇園祭 祭礼篇
フィールドミュージアム文化史28

以上8ヶ所に建っています。時間があれば実地に行かれて、ご確認をお勧めします。
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京都のグラフィカルな歴史案内板への追加 2018年07月17日17:14
拙サイトコンテンツ『京都のグラフィカルな歴史案内板 』
https://gomi17.web.fc2.com/hiskyoto/annaiban.html
に新たな案内板を追加。
Σ:京都市電の歴史:葵橋


Φ:上杉本洛中洛外図屏風:二条大橋



Ψ:時代祭:丸太町橋



の3種5枚。
これ全て京都府河川課・京都土木事務所が建立した鴨川ギャラリーなる鴨川に架かる各橋の下に案内板を建立していくものなのだが…オフィシャルサイトには始めに建立した2ヵ所だけの記載しかなく全体像がつかめない(泣)
新聞記事サイトで『2012年度から整備を進めているもので、最終的には10カ所に設置されるという。』とあったが未建立がどれだけなのか全くわからない。

出雲路橋、葵橋、出町橋、賀茂大橋、丸太町橋、二条大橋、御池大橋、四条大橋の8つは検索して出てきたが、あと2つはどこなのだろう?歴史で言うなら江戸時代東海道の終点だった三条か清水寺参道の松原か牛若弁慶の伝説の五条かな?

まぁ先日の大雨で京都府河川課のサイトを漁ってた時に見つけた案内板だが、見つけた時点では怖くて鴨川の橋の下なんて行けなかったし(笑)撮影して帰宅後にあと何点かあることをサイト検索して見つけたドジぶり(笑) 
追加はその内に…
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先日の大雨の避難発令で気づいたこと 2018年07月10日19:18

先日の大雨は各地で甚大な被害をもたらし、この京都でも被害にあわれた方が多いと聞きます。心からお見舞い申し上げます。

携帯の電源を入れていると京都市内のアチコチの学区に避難準備や勧告・指示が次々と出され、対象地域が市の北部から次第に都心部への近づいて来るので緊張したものです。

その様子は京都市災害対策本部が纏めたpdfで確認できます。
https://www.bousai.city.kyoto.lg.jp/cmsfiles/library/2018/H300705saigai6.pdf
のp6からp10に載っていますので見てください。

桂川流域は旧京北町にまず避難準備が発令され、次第に桂川下流へ拡大されるのが読み取れます。

それに対し鴨川・高野川流域の避難準備発令の上京区・中京区・下京区の避難準備発令の時間に注目してください。

上京区ではまず待賢・室町学区に中京区では教業ついで本能・龍池・城巽・明倫学区に下京区では尚徳・修徳学区にマズ発令されています。つまり鴨川右岸より前の時間に堀川や西洞院川の窪地が危険と防災のプロは判断したわけです。


そして平安京に即して言うなら上京区と中京区で大内裏があった学区には避難準備や勧告は発令されずに大雨は過ぎ去りました。つまり土砂崩れも洪水もほぼない地域を大内裏に1200年前に定めた様子です。
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平安京復元模型 北と西からの眺め 2018年02月23日21:57
2月のつぶやきで
【「平安京復元模型」について、某所より【これまで他施設にて保管されておりました「周辺部」(北域・右京域)の, 平安京創生館への移設・展示が決定いたしました】 との情報を入手。※上賀茂神社や深泥池、大覚寺や嵯峨釈迦堂など興味津々。特に蛇塚の封土の有無や、清水山や天塚等の古墳群、桂別業など期待感マックス。】
とつぶやいたが、概要が解ってきた。
平安京模型は「周辺部」も併せ今の別室に移動。距離はともかく東西位置を合わせて鳥羽離宮も同じく移動。狭い部屋に平安京模型・鳥羽離宮模型・法勝寺模型・豊楽殿模型と豊楽殿鴟尾実物大模型が揃う。

そこで、スペースの関係で北の端を壁に付けることになったらしい。つまり北からの眺めはもうわずかで見られなくなる…

ということで携帯で動画を撮ってみた。

静止画像で解説

下鴨神社と賀茂川・高野川の合流地点 合流地点下流の鴨川は水があるのに上流は双方の川ともに伏流水になっている。


現在の京都御所とその北側【同志社・相国寺】あたりと白峯神社《飛鳥井家の屋敷》
南北朝時代に北朝の基となる持明院が見える。


現在の西陣あたり 賀茂の祭り【葵祭】を司った賀茂斎院とその北に広大な寺域のあった雲林院・南に尊重寺と世尊寺が並んでいる。


船岡山と西裾に北山蓮台寺が南に平野神社・北野天満宮・北野廃寺がみえるが現在京都市内で最古の建造物である千本釈迦堂は鎌倉時代の創建の為に模型にはない。


動画では撮れなかったが今宮神社


西の山は衣笠山、東の峡谷は紙屋川-平安時代前期はそのまま西堀川となった。その間にある屋敷は神紙伯家の屋敷。鎌倉時代に西園寺公経が譲り受け北山殿を営み室町時代に足利義満が得て金閣寺となる。


今の北野白梅町に四町規模の大きい寺があった。丁度一条大路の北、野寺小路を中心にした位置にあったことは判るが太秦広隆寺の前身なのか並立していた寺なのかは全く不明。その東に今と変わらぬ位置に、大将軍八神社がある。


ひときわ広い道が二条大路。その南で大内裏の西端の道、西大宮大路:現在の御前通り:から数えて3本目(野寺小路:西大路通り)と4本目(道祖大路:佐井通り)の間にあったのが斎王宅。ただ今世紀に入ってからの発掘なので模型では表現されていない。


西市と西寺 早くに廃れたとのこと。西南部は御室川が大きな湿地を作っている。これをみると平清盛生誕地が西大路八条というのは怪しい(笑)


おまけ1:円融寺 現在の龍安寺

おまけ2:円教寺と円乗寺(の東側)

おまけ3:法金剛院

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【平安京妄想説】現西京高校の斎宮跡に居たヒロインは 2018年01月26日19:50
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現京都市立西京高校の正門横に建つ案内板だが、この高校グラウンドより出土した斎宮邸の主人について考えてみよう。
案内板の文面からは誰がどころか何時の屋敷かも書かれていない。ここで一番信頼できるネット上の文章を当たってみよう。
リーフレット京都299 埋文研・考古資料館
http://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/299.pdf
発掘した当事者が発行したリーフレットだから信頼できます。
『この遺跡は、出土遺物の年代か ら9世紀後半に造営され、その後、 数十年に及ぶ期間存続したことが うかがわれます』
ここで9世紀後半に卜定され10世紀前半【遺跡の最終確認遺物】までおられた内親王・女王は6人
恬子内親王、識子内親王、掲子内親王、繁子内親王、元子女王、柔子内親王
平安時代の斎王その1 明和町観光サイト
http://www.town.meiwa.mie.jp/kanko/meguru/saio/rekidaisaio/1456213579423.html
より
この6人の中で元子女王は内親王ではないので1町規模屋敷を構えられたか疑問が多いので除外する。また卜定から薨去までの期間が短く【数十年に及ぶ期間存続】と斎宮邸が続いた期間を屋敷が保てたか疑問な内親王3名を除外すると残るのは
恬子内親王と柔子内親王の2名 期せずして『伊勢物語』と『大和物語』の2名となった。

ここで【数十年に及ぶ期間存続】の位置づけをどう見るかだろう。斎王が伊勢より退下して後も居住した屋敷とみるなら恬子内親王であろうし、斎王が初斎院-野宮と潔斎したときから伊勢へ赴いた期間の留守居宅とみるなら柔子内親王だろう。

ここで元斎王が「斎雑所」「斎舎所」と記された墨書土器を使用許可しただろうか と考えると廃棄したであろうことから【数十年に及ぶ期間存続】は伊勢での最長期間斎王を務めた柔子内親王の期間だと妄想して良いのではなかろうか。

尚、柔子内親王は退下後は「六条斎宮」と呼ばれたように六条に屋敷を構えたらしい。六条というと源氏物語の六条御息所は徽子女王がモデルとされているが源氏の六条院の元となる屋敷を六条に構えていたとのことで「六条斎宮」のイメージも一部受け継いでいるのかもしれない。逆に「六条斎宮」は源融の河原院屋敷跡に居住したとも妄想できる。父親が宇多帝だけに屋敷を得られた可能性は高い。

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【平安京妄想説】島津製作所の平安初期屋敷の主は誰か 2017年08月13日14:32
■三位以上の高級貴族邸宅か 島津製作所の敷地内から平安初期の最大規模の邸宅跡 京都
(産経新聞 - 08月03日 18:07)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=3&from=diary&id=4700503

さて、誰が住んでいたのかをこの新聞記事に従って考えてみよう。

書かれてある情報は、まず一町規模屋敷であった。これは当時三位以上の高官でないと構えられない規模の屋敷だった。
遺物【主に土器】の形式から9世紀前半のもので後半のものは見当たらず9世紀半ば【記事中では840年ごろ】で屋敷は放棄されたと思われる。
その上の層は紙屋川の氾濫層で、この氾濫により屋敷は放棄されたと思われる。


ここで、紙屋川の平安初期の姿を思い出して見ると、西堀川という人工河川として10世紀前半までは現在の西大路の東を流れていたことが京都気象台と五条通りでの発掘調査で判っている。
つまり屋敷が放棄されてから約半世紀後までは平安京の右京三条三坊五町あたりには紙屋川は流れていない。湿地帯となって屋敷を維持できなくなるには50年近いタイムラグがある。

屋敷を他の貴族に譲り渡したとするには9世紀後半の遺物もなければ、建物を建て替えた痕跡もない。9世紀前半に屋敷の主はこの地を去り、誰もこの地に住むことなく朽ちていった屋敷に半世紀後に紙屋川もとい西堀川が大洪水を起こし土砂に埋もれていったのではなかろうか。

では何故に誰もこの地に住まなかったのだろうか。9世紀後半ならば西堀川は数百メートルも西に流れ始めて百年も経過していた故に低湿地とは考えづらく高級官僚が住んでいた一町規模屋敷と言えば垂涎の邸宅地となるだろう。ここで当時流行っていた怨霊思想に思い至る。怨霊とは政争に敗れた敗者の恨みが祟ることであるから高い確率でこの屋敷の主は9世紀半ばの政争敗者である故に祟りを怖れ洪水時期まで誰も住もうとはしなかったのではなかろうか。

9世紀半ばの政争を年表で探せば【承和の変:842年】と【応天門の変:866年】が出てくる。ここで記事に載っていた埋文研の推測《840年ごろには廃絶》との言葉に従い承和の変で処罰された三位以上の人物がこの屋敷の主ではなかろうかと推測する。変で処罰された三位以上の高級貴族は藤原愛発と藤原吉野−どちらも正三位−と皇太子恒貞親王の3名である。

ここで平安京妄想説のその2を起動《その1は政変敗者説》
恒武天皇が創り嵯峨天皇が定めた平安京は大路小路だけでなく京域内の役所施設も東寺西寺や東市西市のように左右対称に配置されていた。この対称性は施設だけでなく屋敷の配分をも意識されていた、との見方もある。つまり左京に藤原氏の屋敷を、右京に皇族・賜姓貴族の屋敷を与えたとは考えられないだろうか。もちろん百花亭(藤原良相邸)や在原業平邸のように例外が多いことは承知の仮説だが… 淳和院や西京高校の斎宮、源高明の西宮など右京に皇族・源氏の屋敷が多い印象はある。当然ながら島津製作所の屋敷が濁流土砂に埋もれた10世紀前半の西堀川がなくなり天神川【の前身】が生じた洪水以降は山ノ内西院西京極あたりは貴族屋敷はなくなっただろうから右京左京での藤原氏源氏の屋敷分けはなくなっただろう。

という訳で島津製作所の平安京の右京三条三坊五町にあった貴族屋敷は恒貞親王と推測する。父親である淳和院御所とはほぼ南に300mという近い位置なことも好材料。タダ当時も皇太子は内裏の横に住んでいたのなら、まったくの妄想にすぎないのだが(笑)

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【平安京妄想説】船岡山は平安京の基点に非ず 2017年08月04日16:46
船岡山…平安京の基点となって羅城門・朱雀大路・朱雀門・応天門・大極殿と一直線上に並ぶ平安京の基線の北端に位置して基準点となったと推定されている丘陵で四神相応説では玄武に対応するとされている。

梶川敏夫氏はその平安京の造成時の想像図を
http://homepage-nifty.com/heiankyo/heian/image/heian07.jpg
のように描かれている。
しかし、本当に平安京の基点として山頂の岩磐座を設定して平安京の設計が行われたのだろうか?

まず、疑問に思ったのは先行する長岡京には北には丘陵・山地は京都市の広沢池までない。南には石清水八幡宮という聖地があるが神社や鳩ヶ峰は長岡京の朱雀大路よりも西に位置しているし、八幡宮そのものが9世紀に宇佐神宮から勧請されたから長岡京の造成時に神聖視されていたかどうかは疑問である。
つまり長岡京の南北基線上には目立つ山地丘陵はなにもない。それが僅か10年後に主導者が同じ桓武天皇の元で大極殿位置の経度を決定するという重要事項の根本的な仕組みが変わったとするには都市計画や宮殿・内裏構成が余りにも似すぎている。


どうやら平安京も長岡京と同じように山岳丘陵に拠らず大極殿位置を設定して、造成してみたところ【タマタマ】朱雀大路の延長線上に船岡山があったのではないだろうか。

平安京オーバレイマップ
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/theater/html/heian/
で大極殿位置を確認して緯度・経度・標高を表示するマップで千本丸太町交差点西北隅をクリックすると

同じマップで船岡山の同一経度を探ると

山頂三角点と約60mほど西に在り標高も5mほど低い。平安京の造成時の測量精度は非常に高く、ほぼ同時起工した大路小路の差は殆どなく1Mも側溝はズレてないとは埋文研の先生の現説の言葉。その精度の高い測量技術で最高標高地点【と古代からあるとされる岩磐座】を数十mも東に基準線を描いたのだろうか?


グーグルアースでみた船岡山 岩磐座と三角点が解る。

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【平安京妄想説】四神相応は後付け 2017年07月28日11:35
まずは2つのグーグルマップを見て頂こう。
https://www.google.co.jp/maps/@34.331113,109.0166385,12z

https://www.google.co.jp/maps/@34.6658377,112.4227435,12z

現在中国の陝西省西安市と河南省洛陽市の地図である。一見して解るように西安では北に渭河(渭水)が東へと流れ、洛陽では洛河(洛水)が南を東へと流れている。
また恭仁京の復元図をみても
http://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/kunikyu.html
木津川は恭仁京跡の南を西に流れている。

これは全ていわゆる四神相応の「東に河川がある」には当てはまらない。西安は平安京のみならず藤原京から始まる日本古代宮城のモデルとなった都市-長安の現在の名称であるし、洛陽は現在の京都の雅称として京都-平安京のもう一つのモデルでもある。というか、随から唐の首都と副都であり殷周の頃よりこの2つの都市以外は地方都市に過ぎなかった。

つまりは、平安京ができる僅か半世紀前【桓武天皇は既に生まれていた】の宮城-恭仁京ですら考慮されなかった長安・洛陽両都市でも対応していない、四神相応・山川道澤説に従って平安京なり長岡京の地が選定されたというのは無理が多い。

四神相応山川道澤説は11世紀の『作庭記』に記載があるしいう。しかし『作庭記』は【庭に関する】風水の文書で都市計画に関する書ではない。しかも平安遷都後かなりの時間経過の後に成立している。平安貴族による自画自賛的なものが山川道澤説ではなかろうか?もちろん高松塚古墳にあるように四神は飛鳥時代から信仰されていたし、平城遷都詔は「平城の地は四禽図に叶ひ」とあるが四禽図が山川道澤であるとは書かれていない。

ちなみに山川道澤説による白虎の山陰道は国司の官位からみても主要幹線とは読み取れないし足利健亮説によると山陰道は平安時代は羅城門を南に行った地点から発していた。

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京都のグラフィカルな歴史案内板 2017年07月25日13:24
拙サイト『京都のグラフィカルな歴史案内板』
https://gomi17.web.fc2.com/hiskyoto/annaiban.html
に久々に案内板追加


戌:「もっこ橋」の由来


亥:平安京羅城門模型デジタルサイネージ
最初は脇のパネルには絵が無いからスルーの予定だったがデジタルサイネージが新しい「グラフィカルな歴史案内板」かと思い直し追加


Γ:東西通りうた
追加するなら、この音楽も…と 干支漢字を使い果たしギリシア文字の大文字【ラテン字と被らなものだけに限定】


Δ:近衛家別邸 御花畑屋敷跡
中村武生先生が建立された案内板を何点か追加


Λ:久坂玄瑞 吉田稔麿 寺島忠三郎などゆかりの地


Ξ:徳川時代 宗氏屋敷跡 附 桂小五郎寓居跡


Θ:京薩摩藩邸
ストリートビューで見つけた駒札 同志社には久々に行った。


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七夕も近いのでGoogleEarthの星空写真を 2017年07月04日14:20
最初はベガとアルタイルを並べて と思ったが面白みが無いので(笑)


枕草子でも言われている「星は…」
高校時代 視力2.0あった時は8つまで見えたが今は全く見えない
当時オペラグラズで見ると10個以上見えたな。


先日「つぶやき」でも触れたがSFの舞台で多用の暗黒星雲。
オリオンの三ツ星の傍にあるが双眼鏡程度では無理らしい。


αケンタウリとプロキシマ 日本からは見えない。プロキシマは位置的にOKな場所でも
反射型の大口径が必要。


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【平安京妄想説】東洞院大路との大路名は摂関期まで無かった 2017年02月22日00:34
今上天皇 退位後は京都にお戻りいただこうとの提案も
削除されたmixiニュース
なんてmixiニュースがあったが、天皇退位後の住まいを普通は「院」と呼ぶ。

所謂歴史用語の院政の語源なのだが、院以外にも仙洞御所との呼び方もある。
そして「院」と「仙洞御所」の2つを併せた「洞院」という言葉も同じように天皇退位後の住まいを意味する。

ここで京都人なら誰でも思い出す「東洞院」と「西洞院」という通り名が思い浮かぶ。東洞院通りと西洞院通りは【平安京開設時の東(西)洞院大路】と御池通りの辻標に表記されている。
東洞院
西洞院

でも名前からすると、その大路沿いに「院」又は「仙洞御所」があった大路の西と東と読み取れる。でも平安京の開設時には双方の大路には「院」は無かった。
もちろん双方の大路沿いに後院は多く設けられたが代表的なものとしては西洞院は閑院は院政期であるから亭子院 であろう。東洞院は花山院か。どちらも亭子院なら九世紀、花山院なら十世紀に作られ平安京開設時には影カタチは無かった。

だから東(西)洞院大路という大路名は平安遷都どころか摂関期まで無かった可能性は高い。
まぁ具足小路が訛って糞小路となり後冷泉天皇の宣旨で錦小路に改称したとのことからも摂関期ぐらいに平安京の大路名・小路名が定着してきたのかもしれない。一条大路…九条大路もその頃に呼ばれ始めたので一条から九条の言葉は条坊制として土地プロックを指し示す言葉であった可能性も高い。


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