平安時代、京都≒平安京はどのように川ががれていたのだろうか?
平安時代と言っても400年の期間があり10世紀後半にもなると西堀川は大きく流路を変え蛇行を始めたことが知られている。つまり右京の大路・小路を跨ぐ元天神川が誕生し当初の設計とは異なる河川が誕生した。そこで9世紀の平安京−つまり建設当初の平安京はどんな河川図を構想し実際に描いていたのかを探ってみたい。
平安京遷都以前の京都盆地は下図のように概ね今の桂川と鴨川とほぼ似た流路の2大河川と、北東部から南西に向かい流れる小河川、北西部から南東に向かい流れる小河川で構成されていたと地質構成などから推測されている。また扇状地を作っている河川は東より白河、高野川、賀茂川、紙屋川、御室川、有栖川(嵯峨)、桂川となっている。つまり、その他の河川は大雨洪水時以外は流量は極めて少なかったと推測される。
(図1)
(図2)
また、平安京は
延喜式巻42の「左右京職」に道路の規定が記されており、それによれば各大路・小路の両脇に側溝が設けられていた。各大路小路は直線であり全体像は格子状ななっていた。この延喜式の規格は平安京建設時に実施され精度は3桁以上の高精度であったと確認されている。【
平安京の条坊制:山田邦和】平安京以前にあった河川(図1.図2)はその大路小路の整備建設時に直線状に流路変更されたと推測される。
また各大路は河川が流れていたとも伝えられ、堀川を含め東より中川(東京極川)・東洞院川・西洞院川・東堀川・芥川(大宮川)・西大宮川・西堀川・佐井川・木辻川・西京極川とも伝えられ推定図として下図のようなものなどがウェブ上に挙げられている。
(図3)
(図4)
ただこの2つの図は一見すれば机上の河川図のようにも見える。つまり一条大路(南北位置が等しい地点)から始まり九条大路で消えている。もし泉など湧き水から各河川が始まったとしても不自然すぎる。また冒頭の原京都推定河川図とも解離しすぎている。だが、京都市埋蔵文化研究所発行の発掘調査録によると上に挙げた河川は実際にあったことは確認されている。従って上記の図の河川は北辺では延喜式の側溝であり空掘りか流量が極めて少ない小川であったであろう。
その側溝に賀茂川や紙屋川扇状地の端からの湧き水、冒頭推定図の遷都前河川跡の湧き水などの伏流水の泉や池から湧き出た水が流れ込んで、側溝のスペースでは足らなくなり大路・小路名称の河川になったのではないかと推測する。
旧京都市街地では1〜2mも掘れば井戸から水が湧いたという。平安京内に構えた貴族屋敷でも同様に1〜2m掘れば水が湧き、広げれば池となったであろう。別に脇に流れる川から水を曳く必要は無く、かえって側溝を流れていた水は【芥川】の名称などても判るように下水として機能していた。下水を曳いて池を設けたなら腐臭が漂い舟遊びなど出来たはずはない。逆に湧いた水を側溝に流していたのではないだろうか?
また、そうでなければ1図や2図にみられる平安京羅城域内から現われ南東に流れていた河川が平安京造営後に消える訳はなく後身は湧き出でた箇所の傍にある大路か小路を流れなければおかしい。
では、一条大路に流れ込む小川はあったのだろうか?
一条大路より北には池泉が無かったはずは無く、そこを水源とする小河川が北区や上京区には多くあった為に【現在は暗渠化されたり埋め立てられ消失したものが多い】機械的に各大路に対応する小川を当て嵌めることは簡単でもある。図3では町川、東洞院川、【名称は書き込まれていないが】今出川−中川などが平安京一条大路に流れ込む川として描かれている。また江戸期の考証地図学者・森孝安は『
中古京師内外地圖』で紫野有栖川を大宮川の源流として紙屋川とは別個の北野天神の東を流れる川を西大宮川の源流としている。
ただ、これらの小河川は天神川や賀茂川から分枝させた川を除き流量は極めて少なかっであろうことは冒頭にも述べた。
極めて幾何学的で面白い流れをする河川が北区にある。宇多川は金閣寺の池から発し南下して【この部分は現在暗渠か廃川】一条通りのすぐ北を西に進み等持院の西から出て右京区と北区の境となる河川【調べたが名称不詳】を併せ妙心寺の東を南下する。この辺りは大正末期か昭和初期まで宅地化されなかったので「ひょっとすると」一条通りのすぐ北を東西方向に流れるということは平安京の一条大路側溝を今に伝えているのではなかろうか。また小川(こがわ)が一条で西に流れ堀川と合流するのは古図には必ず記載されている。
と述べられているが鴨川に対して御室川はあまりに流量が少ない。シンメトリーな構造なら鴨川に対応するのは桂川であろう。また御室川が建都前には現三菱自動車あたりから西寺公園辺りへの流路を残していることは図1を見れば判るが、これを現流路に近く双ヶ丘西麓から西京極大路で南へと流れを変え、北から現在も妙心寺の西脇を流れる西の川(図5)が双ヶ丘東麓へとは流れず五位山の東を流れ、春日小路と二条大路の間あたりで合流している様子として森孝安は『中古京師内外地圖』で考証している。
この辺りの西京極大路は巾10丈(約30m)はなく17m程度に狭かったことが法金剛院の発掘調査で判っているが、その狭かった西京極大路でも巾2.5mの西側溝と流跡は確認されている。
森孝安考証の示唆は北野天満宮の東を流れる河川跡でも示される。それは図1で確認でき、江戸期の古図では御前川は北野天満宮の東辺りを発するものとして流れを描かれている。現在の蘆山寺か寺之内の御土居あたりで分枝していたプロト御前川というか第2紙屋川が北野の杜に菅原道真を祀る神社が建った為にバッファー機能を失い北野の森あたりを発する小河川となる。ストレートに流れるようになった単独の紙屋川は豪雨の際に中御門大路のあたりで土砂が詰り右京のそこより下流全体に広がる大洪水を10世紀中頃に起こす。慶滋保胤が描いた右京衰退が二条以北にはなかなか及ばなかったのは、それ故かもしれない。