♪まるたけえべすにおしおいけ
♪あねさんろっかくたこにしき
♪しあやぶったかまつまんごじょう
また「雪駄ちゃらちゃら魚の棚、珠数屋二筋万年寺、七条過ぎて通り町なし」とのバージョン も京都雑学:京都の通り名わらべ歌 に掲載されています。
最後のバージョンを考慮外として、
また「雪駄」を「せきだ」「せつだ」「せった」の3通りに
「七条」を「ひっちょう」「ひちじょう」の2通りに
訛っていますのを除いて考えても、
歌い込まれている道が六条−七条−三哲−八条−東寺道−九条−十条の中から
イロイロ選んでいます。
この選ばれた道もバージョンによっては南北位置が異なり、
また歌い込まれていない道(花屋町・正面・北小路・梅小路etc)も多くなっています。
また「雪駄チャラチャラ魚の棚」を雪駄屋町通・鍵屋町通・銭屋町通・魚の棚通とすると
現在のこれらの道の名称は楊梅通、的場通、銭屋町通、六条通ですから
各通りの間隔は約60mになって、丸太町−五条で歌われた道の間隔・約120mの半分になります。
A.B.などに歌われている十条通りが大正期に作られた新道なので「後に付け足されたのでは」との説もあります。
これらのこと 《良く知られている個所が五条まで・それ以降は別バージョンが多く・五条以南は省略された道が多く、また五条−六条間の間隔が異様に狭い》 から元歌はいつ頃作られたかは解かりませんが丸太町−五条だった可能性が高いのではないかと考えられます。
ここでこの地図を見てください。
カッパ研究会・室町時代の河川図と平安京探偵団
の地図を合成したものです。
これは戦国末期−信長が上洛する直前の京都を描いたものですが鉄アレイ状に2つの町が分かれています。
これが今に伝わる上京と下京のオリジナルな地域なのです。
この地図では若干判り辛いですが、この2つに分かれて細くなった部分の中程が丸太町通り…唄い出し部分になります。 南端にあるのが五条通りです。
また下京の歌であったとすると南北の通りの歌「寺御幸」が廃れた原因も解かるのではないでしょうか。
京都の南北の道はご存知のように秀吉により天正町割として南北の新道を平安京より由来の道の間に通し短冊形に改造しています。
でも高倉から堀川・三条から五条の間は新道が通っていない個所と通っている個所が交錯しております。
つまり南北の道の順番を覚えていても、どの位置にいるかにより次の道が様々で実用にならないのです。
参考までに江戸末期の地図をご覧下さい。
東へ4本の道が鴨川を跨いでしますが北より三条・四条・松原(旧五条)・五条です。この間には縦の南北道が
貫通していない個所が様々なことが見て取れます。