平安京右京の大路小路名
  −限定地域での使用疑問−


クリックで拡大図左記に掲げたのは平安京探偵団のヨウダさんのご好意により転載させて頂いた平安京図だが、ここでは右京の大路小路名を見ると西より「西京極」「無差」「山」「菖蒲」「木辻」「恵利止」「馬代」「宇多」「道祖」「野寺」「西堀川」「西靭負」「西大宮」「西櫛笥」「皇嘉門」「西坊城」となっている。
これらの大路小路名は九条家本『延喜式』の付図に記載されていたことに拠っている。それを根拠により各種の平安京復元図には、この大路小路名は載っている。だが、この平安京右京の大路小路名は本当に使用されていたのだろうか?

平安京の遷都当時は南北道路は朱雀と両京極の大路しか呼び名がなく、場所の特定は坊条制に従い−例えば現西京高校にあった斎宮は右京三条二坊十六町と−呼ぶようにしていた。また『平安京−京都 都市図と都市構造』での土地表示方法の金田章裕氏の考察によると「九条家本『延喜式』の成立時点=10世紀初頭では街路名は成立しておらず、10世紀末か11世紀初頭の一条天皇の頃、摂関期に街路名は成立した」と考えられている。そして「その街路名の成立時点以降に『延喜式』に街路名は追記された」とされている。
右京は平安時代造営時に右京・西南部の一部を除いて大路小路は整備されていたことは各地の発掘で確認されている。ただ南部には人家は少なく、街路は整備されているが屋敷が点在する郊外的な風景では無かったかとされている。遷都より30年後、造宮職が廃されてからは僅か20年後に左右京職に京中にある空閑地を調べさせて各地主に耕作させることが命じられているが、どうやらこれも後追いで既に耕作されていた可能性も強く当初から農村地帯とも考えられる。それがまもなく『池亭記』(984年)などに記されているように貴族の屋敷は減少していった。摂関期には「小泉荘」と呼ばれる広大な藤原家の荘園などもあり、完全に農村であったことが伺える。
右京には、左京に見られたような都市空間がない摂関期の時点で、都市空間ゆえに名付けられた大路小路名が左京と同時に名付けられた可能性は非常に低く、平安京遷都以来の固有名詞を持たないスタイルの大路小路が続けられたでああろうことは推定できる。また多くの大路小路は流路と化したり、農道となっていった。

最近の平安京復元図なら、どれにでも載っている筆頭に挙げた右京の大路小路名も古図を見ると、異なるものがある。
まずは下記のリンク先の平安京図を見て欲しい。
花洛往古圖 一枚 寫本 (からくおうこず) 天保一四年風來庵寫
平安城左右京職坊保圖 一枚 寫本 (へいあんじょうさうきょうしきぼうほず) 伊藤長胤制 寛政九年寫(彩色)

狩野文庫にある江戸期の平安京復元図だが上に挙げた現行のものと右京の大路小路名に多大の違いがある。左京の大路小路名のコピーとなっているのがお判りだろうか。具体的に言うと西より「京極」「富小路」「万里小路」「高倉」「東洞院」「烏丸」「室町」「乎尻」「西洞院」「油小路」「堀河」「猪隈」「大宮」「櫛笥」「壬生」「坊城」と後者の地図には記載されてる。
また昭和初期の歴史副読本なのだが道祖と木辻の大路名だけが独自で西大宮大路も大宮とだけ書かれて左京と同一名の平安京図もある。−右の掲載図− クリックで拡大図
一見して文人が机上でシンメトリーを求めて創作した、使用されていなかった街路名だと判る。創作だと判る根拠としてはアタマに「西」が付いたとしても左京の街路名と紛らわしく混乱しやすい。また「西堀川」や「西室町」ならまだ言いやすいが「西西洞院」「西東洞院」なんて実用であった街路名とは想像し難たい。また「東洞院」が「西洞院」より西にあるという矛盾がある。
との疑問を知人にぶっつけたところ「独自の大路小路名は『神祇式』に載っているが、すでに『拾芥抄』でも右京の大路小路名は左京のコピー」と調べて貰った。
『神祇式』=『延喜式』は延喜5年(905年)だが『拾芥抄』は14世紀始め(鎌倉時代〜室町時代)である。
その間に右京の衰退もあり大路小路名の記憶が失われたのだろうか? いや僅か数百年で自然発生的な命名法の地名が失われるとは考え難い。大路小路名が名付けられ『延喜式』に追記されたのが摂関期だとするとマスマス両者の期間は狭まる。また「『掌中歴』も道路名は左京のみで右京には及んでいない。」との記載が『角川日本地名大辞典』の「朱雀大路」の項にあった。

気になり、『平安京地誌』岸元史明氏著−1974年 を読んでみた。
そこでは「右京の大路小路名は左京と同一であったが別名として宇多とか野寺とかの単独名称もあった」との論調だった。 でもそれだと右京の西洞院大路は東洞院大路より東になる先に挙げた矛盾点は残るのだが、その個所への疑問点は述べられていなかった。
また「『長秋記』永久元(1113)年八月十一日条によれば、同日の松尾行幸の経路を記述した部分に、「自二条至支辻子北行」という記述があり、…」との文の紹介が木辻大路というページにあり12世紀初頭には名称が使用されていたことが解る。とすると左京と同一名とは考えられない。しかし『拾芥抄』から江戸時代−昭和初期の復元地図作者にはその独自名の記録が見つからなかった。
独自名があったのに、何故に『拾芥抄』より昭和初期の編者はそれを見出せず、左京の鏡像名を右京の大路小路名としたのだろうか?


右京は平安中期には寂れていたと先にも述べたが、それは現在の山之内・西院・西七条あたりのことで右京の荒廃で引き合いによくだされる『池亭記』でも北野は栄えていると記している。
そうだとすると現在の一条通りから丸太町・御池までの大将軍・西ノ京・花園・安井の辺りには人家もまだまだあり南北道も機能していた都市空間が存在していたのではないだろうか? その都市空間の道に附けられた名称を延長して平安京全体に敷延したのが宇多小路なり野寺小路という名称ではないだろうか?地名として木辻や馬代や宇多は現在、京都市にある。しかし馬代にしても木辻にしても現行の地名が花園あたりなのも傍証になるかもしれない。ただ地名は「右馬寮町」のように平安時代の名称を文献を漁り復活したものも多く参考にはならない。ただ右京の大路小路の名称由来は野寺小路にしても今の北野白梅町あたりにあった古寺が由来の名称とされているし、宇多川も宇多小路の位置では一条通り添いに西に流れている。先に挙げた『長秋記』の記事にしても二条より以北の件である。

ここで狩野文庫にある、江戸時代の平安京復元図を見て欲しい。
中古京師地圖 一枚 (ちゅうこけいしちず) 森幸安識 原本(寛延三年)
中古京師内外地圖 折 一枚 寫本 (ちゅうこけいしないがいちず) 森幸安圖 寛延三年版寫
ここに記載されている右京の大路小路名にも「烏丸」とか「東洞院」が見受けられるが、それもさることながら、平安京の都市部が従来より知られている長方形ではなく「逆L字」型とされていて北辺・一条・二条しか無いことに注目して欲しい。
#森幸安の中古京師内外地圖は日文研でもデジタル化公開されており、ActiveXにより拡大・縮小が可能なので是非、ご覧ください。
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/08.html

摂関期では四円寺も建てられていることから、その道筋の北辺から二条にかけてはまだ施設や建物もあり「中古京師地圖」で示されたような逆L字型の概観だったのではないだろうか? 『平安京−京都 都市図と都市構造』の建物分布図でも前期から中期にかけては施設や建造物などがそこへは密集している。また「右獄」など比較的後期まで残った施設もある。鎌倉時代まで続く集落の報告もいくつかある。京都市地質図などを見ても平安京右京南部は粘土層となり、北部は平安京左京と同じ礫質砂土の層となっている。粘土質の泥地ではなく礫質の扇状地なら水捌けもよく井戸も容易に掘れるであろうことから住居として適しており、右京衰退の根拠の1つである湿潤地はこの辺りには当てはまらない。

京樂真帆子氏の『平安京の空間構造 見えなくなる右京』で論証されたように高級貴族は平安京右京から左京へと去ったが、下級官吏や市井の町人の多くは摂関期でも右京に数多く住んでいた。その摂関期では、平安宮=大内裏の諸施設はマダ機能していた。その大内裏内の役所に徒歩で通う下級官吏たちは何処に住んでいたのだろうか?距離の少ない箇所を求めるならば右京なら北辺から一条・二条になるのではないだろうか? 多くの住民の居る平安京右京北部が都市空間を左京と同じ時期に成立させていたとしても不自然ではない。また都市空間故に必然的に他の街路との峻別のために街路名も同時発生的に生まれたであろう。

北辺から二条へは摂関期には都市空間が残存していて『延喜式』にあるような独自街路名を持っていた。その街路名を『延喜式』では追記して平安京右京全体を貫く街路名とした。『拾芥抄』の成立時点では、都市空間が元々無い朱雀野・西院・西七条あたりは街路名など勿論無く、大内裏の機能が無くなり大内裏跡が「内野」と化した時からは北野から御室までの地域にも都市空間は無くなり街路名も失われていた。平安京図を復元していく作業の中で街路名が判らず、必要に迫られて名づけたのが左京のコピーだったと思われる。『延喜式』は、その調査時点では摂関家の秘本として見出せなかったのではなかろうか。それが『平安京地誌』あたりまで続く両名併記だと思われる。
ただ二条以南の右京南北道名の記載のある平安期の文章はネットを検索してみたが−五条とか七条というのはあったが−見出せなかった。見つかれば、この文は意味をなさなくなるが、「悪魔の証明」−無いことの証明は困難である−の一例ではある。

付記:ただ道祖大路については「さいおおじ」と訓じ佐井・西院に通じるが、平安京を南北に貫通していた「佐井川」に由来するとも考えられ「道祖」が局所的な呼称とも思われるし、どちらが先とは言い難い。−言い訳かな(笑)


Original Mixi Diary 2007/08/17
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