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天正地割はどこまで行なわれたか?


「てらごこ、ふやとみ」で知られる京の南北通りですが1つ置きに平安京から由来のある大路小路と秀吉が天正年間に新たに作った道が並んでいるのは良くご存知のことでしょう。
この御幸町・富小路・堺町・間之町…と続く道を秀吉は、どこまで作ったのだろうか? というハナシです

wikipediaでは『天正の地割』として「御幸町通・富小路通(平安京の富小路は現在の麩屋町通にあたる)・堺町通・間之町通・車屋町通 - 不明門通・両替町通 - 諏訪町通・衣棚通・釜座通 - 若宮通・小川通 - 東中筋通(天使突抜通)・醒ヶ井通・葭屋町通 - 岩上通・黒門通」の12本としています。(2010/6/25閲覧)
「てらごこ」を暗謡するまでもなく現在では黒門か大宮あたりで天正の地割(秀吉の新たな通りの建設をこう呼ぶ)の新道は途切れています。でも創設時−天正時点での京の西端は西の御土居堀…西土居通りになります。これは西堀川大路の位置ですから、この位置まで天正の地割が行なわれ、なにか道路があったのかもしれません。
西ノ京中学の前の道(名称は太平通り)が下の森(西櫛笥小路)と七本松(皇嘉門小路)の丁度真ん中で案外直線なのに気づき疑問が出てきたのです。

御池の辻標 天正の地割の時に出来た新道で「堺町通」は「通り名の由来は、戦国時代に京都の町が衰退していたころには、このあたりが京の街と田畑との境界であったこととされる」との(リンク先はwikipedia-堺町通)があります。[左図は御池通りに京都市が建てた辻標]
この説が正しいとするなら、堺町通の東になる富小路や御幸町は町外れの外−田畑か野原の中を通っていたことになります。それならば西側も黒門通でおわらず最後の御土居堀まで野原や田畑であったとしても新道は敷設されたとしても不思議ではないでしょうか?

御土居と戦国期京 右図はヨウダさんの労作−戦国期の京都−と御土居図を組み合わせ現代の河川図に乗せたものを各々拙サイト「京都の歴史重層地図拡大可能版」で読み取りキャプチャーしたものです。
この図の黄色い部分が当時の市街地。薄いグリーンが平坦地−野原か田畑−です。東西南北どの方向へも市街地から御土居堀までの距離が相当あったことが読み取れます。

「東端の御土居堀から西端の御土居掘まで野原や田畑であったとしても新道は敷設された」と思って地図を眺めると御前通りと天神通りの間や天神通りと西土居通りの間にも西ノ京と呼ばれる地域には道があります。名称は検索を掛けてみたのですが判りませんでした。後者は朱雀第四校の門から始まり両洋高校まで一直線の道です。また四条あたりで途切れていることは、逆に御土居堀により綾小路以南は千本より西は洛外になりますから江戸由来の古道の感もします。

西ノ京という土地は今では京都市中京区に入り京都市の中央部のように見えますが大正年間に京都市に編入された郊外地域でした。ですが早くから都市化され「京のすぐ西にある町」との意味から名づけられた名称だそうです。今の京都市右京区京北と100年の差はありますが似た経緯の土地名称です。

そんな早くから都市化した土地ゆえに道路も残っていたのではないかな?ということで今回の妄想を締めたいが狩野文庫画像データベースの「京大繪圖」の該当個所 http://dbr.library.tohoku.ac.jp/infolib/user_contents/kano/ezu/kyo/kyo_frm_02.html では空白なんです(^^)ゞ 自説補強どころか否定されてしまうかな(笑)
でも、御前通りや天神通りや七本松通りすら、この絵図にはありません。ただ、野原や農地となっていても農道として残り近代で蘇った道として御土居より西ですが春日通り−道祖大路や馬代通り−馬代小路が知られています。
江戸時代の絵図に限らず、明治や大正の地図をみても水田で道は見当たりません。でも御前や七本松・下の森・天神道といった平安京の大路・小路とほぼ同じ位置にある道と並びその丁度中間位置にも直線的な道が水田を貫いていることは1946年に米軍が撮影した航空写真から読み取れます。

追記:埋文研の方に伺ったところ、現在(2012年)のところ桃山時代の道は千本以西には検出されていない とのことでした…orz

米軍による1946年航空写真
に平安京条坊図を乗せた西ノ京
現代の地図
に平安京条坊図を乗せた西ノ京
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Original Mixi Diary 2007/06/27
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